コラム

きびなごの刺身

2019年7月19日

 

九州のある町の炭鉱住宅に私は住んだことがある。1975年の春、私は人を探してかつて炭鉱のあったその町に辿り着いた。Mさんという作家のところに、いるかもしれないと思って訪ねたのだが、見当違いだった。途方にくれている私に、Mさんは京都の山奥で農業コミューンをやっていて、最近その町に住みついたという夫婦を紹介してくれた。その夫婦は、もう誰も住まなくなった炭鉱住宅に住んでいた。夫婦と子供のほかに居候が一人いた。その夜は、貧しい家計の中から精一杯のもてなしをしてくれた。鹿児島の出身ならさぞ好物だろうと、私のためにきびなごの刺身をわざわざ用意してくれた。きびなごは山盛りになって銀色の光を放っていた。その頃の私はヒカリモノがてんで駄目だったが、その夜は死ぬ気で喉の奥におしこんだ。夫婦は、いろんなところを転々とした話をしたが、コミューンの話となると固く口を閉ざしていた。もう一人の居候も頑なに語ろうとはしなかった。コミューンの、つまるところは開拓農民の、苦しみに満ちた生活ぶりが返ってうかがわれる気がした。しばらくいるのだったら、となりの“炭住”を使ったらどうかと言われて、一も二もなかった。その夜からしばらく、私は誰もが“炭住”と呼ぶ家の住民となった。

 

久しぶりに炭住の町を訪れた帰りに立ち寄った温泉で、川沿いに遊歩道を歩いていたら、よくテレビなどにも登場する旅館が川をはさんで両側に立っていた。川向うの旅館は藁ぶき屋根、こちら側の旅館は石造りの素朴な雰囲気を漂わせている。建物だけではない。二つの旅館に挟まれた川の景観も、また見事だった。日本画のように配置された大きな岩が、変化に富んだ川の流れを作り出し、岸から水辺にかけて生い茂った竹林の、すぐ傍では川魚が泳いでいた。そこには、旅行者が期待する“自然の川”が流れていた。

 

しかし、その二つの旅館を通り過ぎると、とたんに安普請の温泉ホテルとごく普通のちょろちょろした川の流れがあるばかりだった。ゴミや汚れたあぶくが川面に浮いていた。私は興醒めした。私たちはもはやこの世から商品化されていないもの、市場化されていないものを探すのが難しい時代に生きている。さっきの川は、そこだけが自然風に加工された人工の川だったのである。