コラム

蕎麦を啜る

1997年6月20日

 

思いもしなかったところで、うまい蕎麦に出会う。とたんにこの上もなく幸せな気持ちになって、心躍らせながら、はらりとさばいてすすりけりだ。たとえばそれは、時間つぶしに入った下井草の街はずれの蕎麦屋であったり、うっかり迷い込んだ赤坂見附の地下街の店であったりする。どんな親父が打っているんだろうとのぞき込んでみると、だいたいさもありなんという雰囲気を漂わせているから不思議だ。一番好きな食い物を言えといわれたら、迷うことなく蕎麦と答える。もちろんとびきりうまくなくてはいけない。

 

苦しいときは、蕎麦を啜るのがいいと若い頃に気が付いた。ずいぶんと蕎麦には助けてもらったかもしれない。寂しいときも蕎麦を啜るのがいい。寂しさがひとしお身にしみていいのだ。蕎麦には、どこかしら枯淡の趣があって、鎮魂作用とでもいうのか、そんなものがあるような気がする。

 

池袋警察の隣に、その昔小さな蕎麦屋があって、店はときどきしか開かなかった。それも昼間の1、2時間だけ。三口も食うとなくなってしまうザルが確か四、五百円で、贅沢して二枚食べてもかえって腹が減った。いつかたらふく食ってやろうと思っていたが、願いがかなわぬまま店は消えてしまった。何とも心残りな蕎麦だ。

 

中学の1、2年だったか。初めて独りで蕎麦屋に入った。熱い蕎麦を頼んだら、出てきた丼に一匹蝿が浮かんでいた。小母さんに告げたら、ひょいと蝿をとってくれた。未だに忘れられないなつかしい蕎麦だ。