コラム

マスコミ経済の時代

1999年5月20日

 

テレビに向かって悪態ばかりついていると、見なければいいのにといわれる。そうはいかない。なんだかんだいっても、テレビ中毒なのである。そんなに重症ではないと思うが。

麻薬患者が、自分を蝕んだ麻薬の悪口を言う。麻薬を売りつけた売人の思い付く限りの悪口を言う。それと同じようなものだと思うと情けなくなるが、要するにそういうことなのだ。

初めてテレビを見たのは、小学校に上がってまもなくだったと思う。皇太子ご成婚を大勢で見た情景がまぶたの裏に残っている。それから、ご多分に漏れずプロレスにもかじりついた。ブラウン管の向こうで反則ばかりする力道山の相手を本気で憎んだ。相撲の栃錦も憶えている。テレビのまねをして『ジェスチャー』ごっこをするのも流行りだった。ちょうどダッコチャンやフラフープが流行ったのと同じころだ。『ミイラ男』や『隠密剣士』になると、それよりもだいぶあとになる。テレビの出始めのころは家にテレビがなかったので、近くの会社の休憩室のようなところで、大人の間に混じって小さくなって見ていた。しばらくしてテレビが我が家にやって来たときは、うれしくてそこらじゅう跳ね回ったものだ。ピカピカのテレビは薄暗い家の中に明るい光と幸せを運んできた気がした。恐ろしい怪物にはとても見えなかった。

現代を新しい中世だとか、戦前への回帰だとか、言う人がいる。確かにそんなところもある。しかし、決定的に違うところがある。テレビがあるかないかである。そう考えると、人類の歴史は「テレビ以前」と「テレビ以後」に分かれる。テレビ史観とでも言おうか。何が大きく違うかというと、テレビ以後の私たちは、テレビの画面を通して現実に触れるようになってしまった。現実と現実でないものが入り混じっている中に生きなければならなくなってしまった。私たちは今でも充分に現実の喪失感というか稀薄な現実感というか、そういう感じを味わっているが、それがどんな災厄をもたらすことになるか、目の当たりにするのはまだまだこれから先のことだろう。観光地に行くとよくビデオカメラばかり回して現実を見ない人を見かけるが、その姿を私たちは笑えない。ある種の仮想現実、バーチャル世界にどっぷりとつかった私たち自身の姿でもあるからだ。

テレビという怪物はマスコミを異常に増殖させ、肥大したマスコミは世界を支配するようになってしまった。政治も、社会も、経済もマスコミによって動くようになってしまった。マスコミの惹きつけるところは、面白いことや元気のあることだ。欠点は、薄っぺらなことと、いいかげんなことだ。マスコミが政府を批判するからといって、反権力だなどと思ってはいけない。政府批判、官僚批判は単なるマスコミの定番商品に過ぎないし、そもそもマスコミは政府よりも視聴者や読者を強いものと見ている。その見方はもちろん正しく、マスコミは常に強いものに付く風見鶏で、弱いものいじめをするのがマスコミの本質である。なぜか、答は簡単だ。弱いものいじめは面白いからである。

このところ、「市場が」「市場が」とうるさいが、市場はある種の仮想現実であって、決して現実そのものではない。先物やらデリバティブやら華やかな虚構がこの仮想現実にいっそう花を添えている。こうした市場の動向はマスコミを通じて投資家に伝えられ、フィードバックされる様子がまたマスコミから流される。投資家にとっては、最終的に決済して金を払うときだけが重たい現実となる。エコノミストがよく引き合いに出す経済のファンダメンタルズとやらも虚構の一種でしかない。マスコミの報道の仕方如何でどうにでもなる。かくして、「マスコミ経済の時代」の幕は開かれたのである。

昔、パンのミミを買って暮らしている貧乏な学生がいた。あるとき、そんな暮らしが嫌になって、つぶやいた。「人はパンのみみにて生きるにあらず」。