コラム

石を投げる

2000年12月20日

 

安部被告無罪の文字が夕刊の一面に踊った日、この国はまだ捨てたものじゃないと思った。

マスコミが我が物顔に振舞うこの国では、しばしば公然と魔女狩りが行われる。魔女は、一国の宰相である場合もあれば、プロ野球監督の妻である場合もあるが、ともかく金と力とふてぶてしい面構えを備えていることが条件である。その点、元帝京大学副学長の安部被告はあの憎々しげな風貌といい、耳をふさぎたくなるようなシャガレ声といい、魔女としてはこれ以上は望み得ないというくらい申分ないキャラクターだった。

一方、魔女に毒を飲まされた哀れな子羊の代表はというと、弱者を絵に書いたような青年と、その行く末を案じる母親である。

いかにも魔女といかにも子羊の対決、勝負は目に見えているように思えたが、それをひっくり返しての判決である。この国には、まだ正義が残っていたのだ。

3月31日のジャパン・タイムスの社説は「ノット・ギルティーはイノセントではない」として、まだ魔女狩りの手を緩めていない。なにか余程ジャーナリストは、人を責めたり、人を断罪したりする資格があると思っているらしい。

医者の責任についてそう深く考えてみたことはないが、だいたいそんなに重い責任を負わされるのは、医者でなくてもかなわないという感じがある。安部被告だって、肩こりに悩んでいたり、孫の登校拒否が困ったもんだとか、流しが詰まって何とかしてくださいよとか家人に言われたりしながら、血友病の薬をどうしたらいいものかと煩悶していたに違いないのだ。多少は優れた能力の持ち主だったにしても、だからといって超人的なことを期待されるのは、むちゃくちゃである。

我々の中のいったい誰が石を投げられるか。ないものねだりを恥ずかしいと思わない人たちと、それから石を投げるのが商売のマスコミだけだ。