コラム

改めて益なきことは

2002年11月20日

 

クイズ「タイム・ショック」ではないが、日本の歴史で改革といえば、「享保、寛政、天保」の3つの改革である。改革とよばれる歴史上の出来事は、あらためて調べてみると意外に少なく、ほとんどこの江戸時代の三大改革だけといっていい。中大兄皇子らが蘇我氏を滅ぼしたのは「大化の改新」だし、後醍醐天皇が始めたのは「建武の新政」である。厳密にいうと、「農地改革」というのがわずかに登場するが、これは、そもそもGHQの命令によるものだし、年号も付いていないので無視することにして。我々が今遭遇している小泉改革は、まことに「享保、寛政、天保」以来の「平成の改革」なのである。

ところで、この享保、寛政、天保の改革は何のために行われたかというと、基本的に徳川幕府の財政再建である。そして何をもたらしたかというと、経済の縮減である。企業のリストラと同じやり方で政府のリストラをやったために、全体の経済が縮んでしまったようなものだ。改革という言葉に幻惑されてか、歴史の本の中には享保の改革を日本の近代化のさきがけとなるものだったと寝ぼけたことを書いてあるものもある。しかし、改革は国中を苦しめただけでなく、結局徳川幕府の財政再建もならず、借金を踏み倒して幕府はつぶれてしまったのである。

享保の改革は、あの暴れん坊将軍吉宗がやった改革だが、吉宗は家康時代への復古を掲げて、倹約令に象徴される徹底した消費抑制策、デフレ政策をとった。地獄の鬼どもも虎の皮を木綿に変えるようにと改革の触れを茶化した記録が残っている。それから歴史教科書にはあまり載っていないが、『徳川実紀』という記録には吉宗の「何ごとによらず、新規のものを工夫・製造することを禁止する」新規製造物禁止令が記されている。

これに続く寛政の改革は、白河藩主の松平定信だが、吉宗の孫に当たる定信は吉宗の政治を理想とする人だったから、当然のことながら消費抑制策を金科玉条とした。その結果、「白川の清きながれに魚すまず、にごる田沼の水ぞ恋しき」と風刺される。

最後の天保の改革は浜松藩主の水野忠邦だが、これがまたまた倹約令である。「白河の岸打つ波に引換えて浜松風の音の烈しさ」という狂歌が残っている。

というようなわけで、元禄を謳歌したさしもの江戸経済もデフレ政策の三連発で息も絶え絶えの状態だった。ある研究によると、江戸時代の経済は吉宗のときから完全に停滞したという。

それが、明治維新後の欧米列強に追いつき追い越せの強引な富国強兵策を招き、対米戦争による甚大な戦禍を受けて無条件降伏へといたるわが国の進路の遠因となったと見るが、どうだろうか。「改めて益なきことは、改めぬをよしとするなり」。兼好の声が聞こえてきそうだ。