コラム

水の流れのように

2003年3月20日

 

昔の人の伝記は、だいたい波乱万丈で面白い。その点最近は時代が味気なく社会がつまないせいか、ほとんどの人の生き方に面白さが感じられなくなっている。ところが、この3月から日経新聞の『私の履歴書』に連載されている京都仏教会会長の有馬頼底という人の半生には驚かされた。

皇太子の遊び相手だった少年が、両親の離婚により母親と引き離されて九州の父方の実家に引き取られる。東京駅で一緒に座っていた母親がちょっと席をはずしたかと思うと、そのままいなくなって生涯の別れとなるシーンは、あまりにも悲しい。3人兄弟の真ん中の少年は大分の日田のお寺に小僧に出される。  少年は和尚にマキで殴られたりしながら、お寺の手伝いに明け暮れる中で、小学校では地元の子供たちに苛められ、中学校もなじめないまま1年で辞めてしまう。少年は、あまりの淋しさに、人に聞かれないようにお寺の屋根に上り声を出して泣く。

ちょうど『二都物語』を書いたディケンズの作品に最近凝っていて、ディケンズの自伝的小説といわれる『デヴィッド・コッパーフィールド』や、孤児の苦難を描いた『オリバーツイスト』を読んだばかりだったこともあって、年端も行かない少年の過酷な状況には俄然想像力が膨らみ、毎朝朝刊が届くのが待ち遠しかった。 高貴な生まれの人が何らかの事情で本来あるべき世界を離れて苦労する話は、キシュリューリタンといって、古今東西あらゆる物語の半分はそれだという説もあるぐらいだが、この話はまるで絵に描いたような「貴種流離譚」である。面白くないわけがない。しかし、少年が成長して大人になると物語は急に色あせてつまらなくなった。

「過去が過ぎ去るのは水の流れのようにだろうか、音が消えゆくようにだろうか。」と、大森荘蔵は書いている。「それはやはり音のようにであって水のようにではあるまい。」と哲学者は言い、「過去はもはや存在しない」と結んでいる。だが、多くの人の心象風景としては、過去はむしろ音のようにでなく、水の流れのように過ぎ去っているというべきだろう。

水といえば、現実的な話だが、水道事業の民営化が検討されているらしい。なんでも世界の水マフィアと呼ばれるような勢力がその利権をめぐって暗躍しているという話を聞いた。ガスや電気はもともとなかったものだから肯ける面もあるが、水はもともとあったものをお上に管理させているだけなのに、わざわざ外国資本を呼んで商品化させるような話だとすればひどい話である。水は、人体の大部分を占めているだけでなく、人の感覚や思考とも強く結びついている。また、民族の文化やその中枢をなす言語にも大きな影響を及ぼしてきたものだけに、効率化だけでは割り切れないものがある。政府は、改革路線の方がラクなものだから、改革改革とうるさいが、やることなすこと改悪にしかなっておらず、いっそのこと何もしないでもらいたいと思うのは私だけだろうか。