コラム

幸せの正体

2004年8月20日

 

建築家の資格制度は当然のことだがそれぞれの国によって異なっている。ところが、アメリカは中国と手を結んで国際標準化の名の下にその資格をアメリカ型に統一してしまったという。とすると、この小さな列島もこれからますますアメリカ型の建物が増えてくるに違いない。『拒否できない日本~アメリカの日本改造が進んでいる~』(関岡英之著・文春新書)を読むとその辺のことが詳しく書いてある。帝国主義という言葉を聞かなくなって久しいが、アメリカが軍事分野と非軍事分野を巧妙に使い分けながら進めているのは、やはり世界を帝国化することか。

『失われた昭和~宮本常一の写真に読む~』(佐野真一著・平凡社)を開いたら、自分の生きた時代の写真がたくさん写っていた。失われた昭和。そして失われた日本である。心ここにあらずという感じで現代という時代をよそよそしく感じることが多いのは、ひょっとすると退場が近づいているせいかもしれない。ともかく現代は現代をよそよそしく感じていない人たちのもので、自分のものではないと感じる。どうやら人の心の中では歴史は連続などしていないのだ。

幸せというのは懐かしいということではないか、とO氏が言ったのが耳に残っている。そのとき私は、心から同感した。元国税局長のO氏、雑誌編集者のY氏、そして私の3人はときどき新宿駅で待ち合わせて新宿ゴールデン街のハシゴをする。Y氏と私はほとんど同じ世代だが、O氏はどちらかというと我々の父親の世代である。O氏に言われるまで、私は幸福感の正体に気がつかなかった。

そんなある日、一通のメールが届いた。30年前の大学の級友の独りが私のホームページを見つけたという。級友たちは皆どこかの高校か大学の教員で、1年に一度数人で集まって小旅行をしている。今回参加した5人のうち2人は先に帰り、3人が米沢の先の上ノ山温泉駅で待っている。よかったら来ないかという。それは天の声にも、地の声にも思えた。懐かしさが先に立ったが、過去のいろいろな経緯も同時によみがえった。30年前の私は彼らのよき隣人ではなかったはずだ。しかし、結局そのメールに引き寄せられるように、私は新幹線に乗り、ホームに降り立った。それから、30年振りに会った級友たちと蔵王温泉に一泊し、翌日斎藤茂吉記念館と上ノ山城を訪ねて、また上ノ山温泉駅で別れたのだが、そのときの幸福感がしばらくは私を満たした。