コラム

青 空

2005年1月20日

 

長い会議から解放されて、ふと空を見上げたとき、青空があるのは救いである。救いはあちこちに転がっているようで、意外に転がってはいない。この歳になると、そのことがよくわかる。だから、青空が妙に胸にしみたりする。

戦時中は、そんなところから爆弾が落ちてきたのかと思うと、不謹慎だが、少し可笑しくなる。山田風太郎『戦中派不戦日記』を読むと、空襲の話ばかり出ている。しかし、そんな連日連夜のB29の空襲下でも、渋谷まで地下鉄に乗ったり、浅草にコントなどを見に行ったりしている様子が書かれていて驚く。

戦争というと、とてつもなく非常事態で、戦争によりなにもかもが壊滅的打撃を受けたと思い込みがちだが、必ずしもそうではなかった。確かに多くの建物や人々は壊滅的打撃を受けたが、全部がそうだったわけではない。大企業の資本蓄積などは、軍需によって毀損するどころかむしろ増大した面もある。それが戦後の日本経済の発展につながっていったのである。たとえば、チッソといえば今では水俣病の方で有名だが、戦時中は今の北朝鮮の興南というところに世界的規模の大化学工場群を有し、軍需会社として一大コンツェルンを形成していた。戦後は、それらを失っていくらか落ちぶれはしたが、それでも国内に蓄積した資本があり、そこから旭化成と積水が分家して、今日に至っている。

空の話に戻ると、広島の昭和20年8月6日の朝も青空だった。そこに光った一瞬の閃光。原爆を落とした青空は、しばらくは燦々と照った後、暗黒に変わって大粒の雨を落とし、それからまた青空に戻ったという。その青空の下では、光線を浴びて、「男であるのか、女であるのか、殆ど区別もつかない程、顔がくちゃくちゃに腫れ上がった奇怪な顔の人々」(原民喜『夏の花』)の群れが虫の息で救いを求めていた。言いようのない残酷な青空である。

おーい、雲よ。どこへ流れていくんだい。見たところ、世の中はある方向に強い力で流されている。早い話、多国籍企業に便利のいいように、世界中が作り替えられている。日本もさまざまな制度や組織が作り替えられたし、今も作り替えられている。その中で当面は誰もが生きていくしかないわけだが、いずれその流れも引くときが来る。その先は…、ケ・セラ・セラだ。