コラム

教育ってなんだ

2006年5月20日

 

このところのJRの利益追求の姿勢にはすさまじさを感じる、と以前書いたことがあるが、とうとう痛ましい犠牲者が出た。すさまじいのは西日本だけではない。JRの駅に電話をしてみて驚いた。なんと東京中の駅の電話が統一されているのである。掛けてみると案の定ずっと話し中、やっとかかったかなと思うと「本日の営業は終了しました」と来る。問い合わせ電話のような利益にならないものは、極力掛けさせないようにしている姿勢がありありと見える。大JRにして、なんといういじましさだろう。

ある日の新聞に、「北海道がわからない小学5年生が過半数」と大見出しの記事が出ていた。読んでみると、いかにもゆとり教育のせいだと言わんばかりである。しかし、北海道を知らないことが果たして学校教育のせいだろうか。北海道は、テレビや催し物はもちろんのこと、食品やお菓子、飲食店の名称など見ないで済ませろと言う方が無理なくらい世の中にあふれている。小さいときからこれだけ身の回りに北海道が出てくるのに、それを小学5年になるまで知らないというのはその子どもが特段知りたくないからであって、知りたいと思えば学校など関係なく頭に入るのである。それを学校教育のせいなどにするのは、とんだ思い上がりである。まるで、なにからなにまで国民は学校で教育しなければ無知だと言わんばかりではないか。

学校教育なんて、そもそも小さいときからお行儀のいい一握りの者たちが後生大事にしてきただけで、大多数にとってはそれほど有難いものではないはずである。実際、学校教育で得たものがあるかどうか、親たちも皆胸に手を当ててよく考えてみたらいい。ほとんど誰も学校の授業など聞いていなかったではないか。ちょっと言い過ぎたかもしれないが…、学校教育の強化を言うのは、このお行儀のいい一握りの者たちで、彼らは常に社会の勝者でありつづけたいから、その社会の枠組みを緩ませたくないから、言うのである。

文藝春秋誌によると文科省のTがゆとり教育の元凶と目されてバッシングされているらしい。Tも学校の授業など聞いていなかった。その代わりに父親からスパルタ教育を受けていたというのは知らなかったが、そのせいでお行儀のいい一握りの者たちの仲間入りをしただけで、Tがゆとり教育を主張するのには理由がある。「Tよ、負けるな」と言いたい。

久しぶりに40度の高熱が出て、まだ熱が残っているせいか、今回はすっかり自己主張型のコラムになってしまった。