コラム
大事なもの
2006年8月20日
これまでの長い日本の歴史の中で、現代の日本人ほど物持ちはいないだろう。裕福な人は裕福な人なりに、そうでない人はそれなりに。皆、身の回りに大量のモノを抱え込んで生きている。それが決して幸福を意味するものでないことは、誰に教えられなくても、我々は知っている。しかし、問題は幸福だけではない。おそらく現代人は物持ちであるために、知性、感性、理性、悟性、のどれをとっても、これまでのどの時代の人たちよりも劣っているに違いない。現代人が過去の人々より優れているものといえば、電気製品をカチャカチャ動かす技術や携帯でメールを送る早ワザ、ラクをして長生きをする技術だけで、智恵や勇気や情緒は縄文人の足下にも及ばず、気力や気骨は戦国武士に鼻で笑われ、思考力、表現力、判断力、決断力は明治人に一蹴されるレベルだろうが、ともかく現代人は空前の物持ちである。
そんな大量の持ち物の中でなにが一番大事なものか。この間の大雨で洪水にあった人が流されたといって嘆いていたのは、家族の写真だった。若い人の中には、携帯が一番大事と答える人もいるらしい。それから、お盆に学生時代の何人かで集まって話していたら、本が大事だという話になった。皆は、30年以上も前に買った西田幾多郎全集とかアリストテレス全集とか、いまだに大事に持っているという。誰かが、本を読んで頭の中に残っているものだけが自分ではなく、外付けのハードディスクのように書棚に残っている本もまた自分なのだと言っているのを聞いて、なるほどうまいことを言うもんだと思う反面、ちょっと違うんじゃないかと思うところもあった。
私も彼らに劣らず、本に愛着を持つ方だが、いろんなことがあって、昔のものはなんにも残っていない。最初になくなったのは10代の頃で、千冊はあったと思うが、本の隙間に気持ちの悪い虫が湧いて、全部焼き捨てた。なんという虫だったのか。あれからあんな虫は見たことがなく、ひょっとすると幻覚だったのかもしれないとときどき思うことがある。次は20代の半ば、沖縄に一時移り住んだときに、古本屋を呼んできれいさっぱり処分した。なにかに執着する気持ちを吹っ切りたかったからだ。それから、3回目は40代の終わり。友人に設計してもらった書庫があったのだが、狭いところに移ることになって全部ゴミ捨て場に持っていった。
実を言うと、その頃からもう一冊の本を全部通して読むことはしなくなっている。一冊の本の中の面白そうなところだけを探して何か所か読む。全体を通して読むことはない。好きなところだけ読んで、全体は自分で適当に考える。そうして自分で考えたところが、一応は自分なのだと思っている。