コラム
忘れ得ぬ人々
2006年10月20日
もう30年以上前のことになるが、奄美大島の古仁屋港近くの民宿に一泊したときのこと。私は徳之島の亀得に何日か滞在して、船で鹿児島港に向かう旅の途中だった。月が高く、寝苦しい8月の夜だった。夜中に、誰かがしくしく泣いている声で目を覚ました。襖ひとつ隔てた隣室の男だった。夕食のときに少し言葉を交わしていたが、20代後半の、身なりからして普通の勤め人には見えない風だった。何の関わりもないその男のことを、なぜかいつまでもよく憶えている。
国木田独歩の短編『忘れえぬ人々』のなかに、主人公のこういう語りが出てくる。
「親とか子とかまたは朋友知己そのほか自分の世話になった教師先輩の如きは、つまり単に忘れ得ぬ人とのみはいえない。忘れて叶うまじき人といわなければならない。そこで此処に恩愛の情もなければ義理もない、ほんの赤の他人であって、本来をいうと忘れてしまったところで人情をも義理をも欠かないで、しかも終に忘れてしまうことの出来ない人がある。世間一般の者にそういう人があるとは言わないが少なくとも僕にはある。恐らくは君にもあるだろう。」
そういって主人公は、19歳の時に瀬戸内を船で渡っているとき偶然小島の岸に見かけた一人の男、阿蘇の山麓で歌を歌っていた一人の壮漢、四国の港町で見かけた琵琶層を例に挙げるのである。
さて、私の忘れ得ぬ人は他にもいる。やはり30年以上前だが、統一協会の街宣活動が盛んに行われていた頃。田舎の町を友だちと歩いていて、呼び止められた青臭い高校生の私と相手は激しい議論になった。そのときの、ソバカスだらけで真っ黒に日焼けした相手の顔をなぜかよく憶えている。しばらくして、相手から送られてきたハガキの「桜島のように雄々しく生きてください」という文面も、なんだかいつも思い出すのだ。
それから、1回だけ授業に出たことのある、つまり1回だけしっかり見たことのあるギリシア哲学の先生も忘れ得ぬ人となった。しばらくしてから、もう一度授業を受けたいと思って尋ねてみたら、先生は大学の門の前で車にはねられて亡くなったという。そんな、大学の門の前で車にはねられて亡くなるような先生っているだろうか。不思議に思いながら、かれこれ30年以上が経つ。