コラム
ヒトの世のならい
2007年8月20日
現代はなにかにつけて過剰な時代である。生産も過剰。消費も過剰。人口も過剰。寿命も過剰。医療も過剰。栄養も過剰。報道も過剰。出版も過剰。情報も過剰。政策も過剰。制度も過剰。軍備も過剰。防衛も過剰。教育も過剰。娯楽も過剰。音楽も過剰。犯罪も過剰。(ふー、疲れた)。そして私たちのおしゃべりも過剰である。
ヒトはもともと饒舌な動物だが、そうはいってもいろいろ制約もあって、言いたいことも言えず、伝えたいことも伝えられず、悶々とすることも多かった。それはそれで、沈黙は金という言葉もあるように、必要性からいうとさしてしゃべる必要のない場合が多く、黙っている間に状況が好転することなどもあったのだ。ところが、携帯とインターネットがその制約を取り払って、ヒトの饒舌の限界を拡げてしまった。そのため、異常な饒舌状態がヒトの世に蔓延してしまっているのだが、そんな限界を超えてしまって果たしてヒトは無事にいられるかというのが、私の素朴な疑問である。
携帯電話やインターネットがなかった頃は、ヒトは今よりはうんと寡黙だった。誰かと話をするにも、直接会って話をするか、手紙を出すか、電話をかけるかしかなかった。直接会って話をするとなると、どこかで待ち合わせるわけだが、待ち合わせというのが結構やっかいで、いっこうに来ない相手を不安な気持ちで待ち続けて、結局待ちぼうけなんてこともあった。手紙も、そもそも書くのがたいへんな上に、清書などしているとこの上なく面倒で、さらに宛名書きをして切手を貼ってポストに投函しなければならないのだから、結局挫折して、筆無精を言い訳にするのがヒトの常だった。電話は電話で、だいたいどこでもまずその家の人が出て、挨拶の一つぐらいはして取り次いでもらわなければならなかったから、つい億劫になるときもあった。それで、言いたいことがあっても黙っていたり、待っていたりしている間に気持ちが変わったりということが多かった。そしてそれがヒトの世のならいというものであった。
ところがそこへ、携帯やインターネットが出てきて、この異常な饒舌状態が始まった。ヒトの饒舌に限界がないのか、それともヒトが限界を超えているのか。最近は、セカンドライフなどというネット上の創造世界までわざわざ作りあげて、そこでもまたおしゃべりやら情報発信やらをしている。この20世紀末から21世紀にかけて登場したヒトの異常な饒舌社会は、ひょっとしてなにかもう由々しき事態を呼び起こしつつあるのではないかという気がするが、どうだろうか。