コラム

エコという名の免罪符

2008年1月20日

 

再生紙を見るたびにやれやれという思いが前々からしていた。こんなもの環境に役立つはずがない。古紙をリサイクルすることは、かえってエネルギーをたくさん浪費して環境に悪そうだってことは、誰だって嗅覚でわかる。地球にやさしいなんてとんでもない。こんなことをさせているのがどこの誰だか知らないけど、どうも仕方ないなあと思っていたら、案の定だった。古紙をリサイクルするのはやっぱりエネルギーをたくさん使って割高になるので、製紙会社としてはなるべく古紙を使いたくなかったのだ。それで、古紙の割合をごまかしたのだろうが、これってこういうことだろうか。

食堂のメニューに新米100%のご飯と古米50%のご飯があって、古米50%の方を注文したら、古米がほとんど入っていなかったことが発覚。それで偽装ということになって、食堂のおばちゃんは「わたしゃ、責任とってやめますよ」と言うのだが、客の方は、古米を新米と偽ったのならともかく、新米を古米と偽ったんだから別にいいんじゃないの、誰も文句言ってないよと頓着がない。もっとも、この例えでは、古米と言うより残飯と言った方が古紙には近いかもしれない。ちなみに、戦前はズケ屋といって東京にもほんとの残飯売りがいたという。今でもインド辺りに行けばいるらしい。

この残飯をメシに混ぜてじゃなかった、古紙を新品にまぜて使おうなんていうアイデアは案外、製紙会社あたりから出てきたんじゃなかろうか。あんまり環境、環境と言われて紙の消費が減ってしまったら困るので、そういうことをかわそうとして出てきたのだろう。リサイクルですよ、エコ商品ですよ、地球にやさしいですよ、といえば世間はころっと風向きが変わるのだ。それが証拠に紙の消費は一貫して伸び続けている。製紙会社としては、もともとその程度、つまり「どっちでも環境にはそんなに影響ないですよ」ぐらいの認識で、タカをくくっていたんだろうが、自分で自分の首を絞めていたんじゃしょうがない。

再生紙に限らず、世を挙げてエコブームである。エコ・カーとかエコ・ファッションとかエコという名の免罪符が付いた商品が次々に登場している。しかし、それらのエコはみな幻想に過ぎないと思う。人類が向かっている運命が、そんな小手先のことで変わることはないだろう。人の心と身体のレベルは、いまだに大昔の狩猟採集生活をしていたときのままなのだという。だから環境を破壊することはできても、それを元に戻すのは人類には難しいのだと何かに書いてあった。