コラム

うまくいかない運勢

2008年5月20日

 

古代の人々には心が二つあったという説がある。ジュリアン・ジェインズというアメリカの心理学者が生涯でただ一冊だけ書いた、『神々の沈黙』という本にそれが書かれている。

人類の意識は今からわずか3千年前に芽生えたものだとジェインズはいう。意識が誕生する以前の人間は右脳に囁かれる神々の声に従う二分心の持ち主で、彼らが世界各地の古代文明を創造したというのである。しかし、やがて二分心は崩壊して、人間は文字と意識を持つようになったが、代わりに神々は沈黙した、すなわち人間からもう一つの心が消えて、神々の声は永遠に聞こえなくなったというのがジェインズの説である。そういえば、人が神と対話をするために作られたのが漢字の起源だというのが、かの白川静先生の発見だった。とすると、神と対話をするために作られた文字が発達するに従って、神との対話ができなくなってしまったということなのだろうか。

話は変わって、運勢の話。

巡り合わせがうまくいった人のことを見ていて、いつも思うことがある。うまくいったことにその人の運勢があったのではなく、うまくいかなかったことの方にその人の運勢があったのではないかと。

知り合いに、同じ会社がつぶれて失業した二人の人がいる。二人は私の郷里の先輩と後輩に当たる。先輩はとても愛想がよく社交的な人なので、すぐに再就職先が決まって、意気揚々としていたが、なかなか職場の水が合わないらしく、その後いくつもの会社を転々としながら、今も条件に合うところを探している。

後輩は、先輩とは打って変わって、いかにも無愛想で不器用なタイプ。案の定、どうやっても再就職がうまくいかなかった。仕方がないので、奥さんと二人で小商いを始めた。夫婦ともよく似たタイプで、どう見てもお先真っ暗な感じがした。ところが、あろうことか、これが大当たりして、…(中略)…、後輩はだれもがうらやむ成功者となった。

結局、先輩は運がなかったのである。運がなかったから、なにをやってもうまくいってしまった。それに対して、後輩はここぞというときに、押しても、引いても、うまくいかないように、運命のつっかい棒が踏ん張っていた。そこに、運があったのだ、おそらく。