コラム
アキハバラが選ばれた理由
2008年7月20日
なんだか最近日本も殺人事件が多いなあと思いながら、ふと本棚を眺めたら『人が人を殺すとき』という本があったので、読みかけの『こんな日本でよかったね』をやめて、そっちを読むことにした。前に読んだときは、人は肩が触れたとか、眼を付けたとか、クラクションを鳴らされたとか、そういう些細なことが原因で起きる殺人事件が最も多いということに驚かされたのだった。今回は殺人発生率の話に興味を引かれた。殺人発生率は国ごとに大きく異なるという。
世界の統計を見ると、10万人当たりの殺人発生率ではアメリカの6.8人やイギリスの1.41人に対して、日本は0.62人と極端に少ない。ちなみに、1位の南アフリカなどは75.3人と驚くべき数字が出ている。ところが、自殺率を見ると、日本は16.72人で世界の10位以内に入っている。アメリカの12.06人、イギリスの7.68人に比べても、文化風土の違いを反映してか、かなり高い数字が出ている。広い意味では自殺も殺人には違いない。結局、人は他人に殺されるか、自分に殺されるか、神に殺されるか、なのだ。いやいや、神には召されるというべきだった。
ところで、あの6月の無差別殺傷事件の場所がなぜ、アキハバラだったのかと考えた。犯人は静岡に住み、福井にわざわざにこやかな顔で買い物に行って、レンタカーのトラックまで借りる余裕を見せている。そして用意周到にアキハバラを目指している。日本一住みやすい県といわれる福井県で凶器を買って、犯人が目指したのがなぜアキハバラだったのか。事件が起きる場所や時間には必ず因縁があるというのは、確か“カラキョウ”の思想でもあった。『カラマーゾフの兄弟』を、最近はそう呼ぶらしい。
犯人は「誰でもよかった」と言ったというが、誰でもよかったはずがない。住みやすい福井や工場のある静岡ではダメだったのだ。自分をないがしろにした職場の同僚や上司や会社であってはならなかったのだ。犯人が目指すのはアキハバラでなければならなかった。そこには自分と同じ根なし草となって絶望の中を漂流する個が、列をなしているように思われた。犯人は誰よりもそんな自分を殺したかっただろう。それならば自分を殺せばよかったじゃないかといっても、自分を殺したいという動機は必ずしも自殺に向かうわけではない。
アキハバラは、消費しても消費しても渇きが増すだけの現代消費社会の象徴である。それが、無差別殺傷事件の場所にアキハバラが選ばれたほんとうの理由ではなかったかという気がする。