コラム

瞼の母

2008年12月20日

 

「おい、地獄さ行くんだで!」。このところブームになっている小林多喜二の『蟹工船』ではそう書かれているが、日比谷を歩いていたら「蟹工船」というカニ料理の店の看板が出ていたのでびっくりした。小林多喜二が築地署で拷問にあって亡くなった話はよく知られているが、小樽湾の岸壁に立つ小さなパン屋を営んでいた母は、「わだしは、小説を書くことがあんなにおっかないことだとは思ってもみなかった」ともらしたという。

母と子の話といえば、20年ぶりに再会した母親を刺し殺した男のことがニュースになっていた。男は母親に再会した日は何も言わず泣いていたらしい。そして、食事をしていけというのを振り切るようにして帰った男は、翌日また現れた。今度は母親を刺すための刃物を用意して。男は、「母をどうしても殺さなければならなかった」と供述している。

母と子が長い年月を隔てて再会する話の定番は、芝居の『瞼の母』である。主人公の番場の忠太郎は、5つのときに生母と別れ、お決まりのようにぐれて、今はやくざになっている。やくざ渡世の中、江戸へ母を探し求めてやってきた忠太郎は、母と思しき料理屋の女将を尋ねる。しかしそこに待っていたのは、我が子を知らぬ存ぜぬで追い返す母の冷たい言葉だった。

「だれにしても女親は我が子を思わずにいるものかね。だがねえ、我が子にもよりけりだ―忠太郎さん、おまえさんも親を尋ねるのなら、なぜ堅気になっていないのだえ。」

「おかみさん。そのお指図は辞退すらあ。親に放れた小僧っ子がグレたを叱るは少し無理。堅気になるのは遅蒔きでござんす。ヤクザ渡世の古沼へ足も脛まで突っ込んで、洗ったってもう落ちっこねえ旅にん癖がついちまって、何の今更堅気になれよう。よし、堅気で辛抱したとして、喜んでくれる人でもあることか、裸一貫たった一人じゃござんせんか。」

こう啖呵を切って飛び出した忠太郎は、ふたたび股旅の路に踏み出していくのだが、その前に一人つぶやくのである。

「上下の瞼を合わせ、じいっと考えてりゃあ、逢わねえ昔のおっかさんの俤が出てくるんだ―それでいいんだ。逢いたくなったら俺あ、眼をつぶろうよ。」

瞼の母を書いた長谷川伸も母に去られた子供だった。小学校を途中でやめて、横浜ドッグの小僧をしたり、土木現場で働いたりして世の中の辛酸をなめたといわれている。そして47年後に母との再会を果たした。