コラム

言語にとって神とは何か

2009年7月20日

 

ある日の産経新聞の第一面に「人生戦略の立て方」という一文が載っていた。最近やたらと顔写真が載っているKという女性評論家のもので、日本人は人生戦略もなくただ漫然と生きている、時間の使い方が下手な時間貧乏である、もっと人生の時間を有効に使おうというような内容であった。私はもう産経新聞を取るのはよそうと思う。これまで曽野綾子の文章がよく載っていたので購読してきたが、もはやこれまでである。

人はどんなふうに生きるのがいいのか、私にはよく分からない。東京にいてもよく分からないところへ来て、今回カンボジアやラオスの奥地に行って、そこでの人々の幸せそうな暮らしぶりを目の当たりにして、ますますわからなくなった。もっとも、そんな奥地の鳥小屋のような家にも、テレビのパラボラアンテナだけはしっかりと進出していて、なんだか不幸を受信して撒き散らしているのではないかと気にはなった。

それから、時間といっても、人により、その時の境遇によってさまざまである。そこには末期がんの人の時間もあれば、認知症の人の時間もあり、死刑囚の時間もあれば、終身刑、有期刑の囚人の時間もある。また、派遣労働者の時間もあれば、失恋した人の時間や引きこもりの人の時間もあり、秘境と呼ばれるような村落の人々の時間もある。つまり、時間は貴重なだけではない。疎ましかったり、ぼんやりとやり過ごしたい時間も、また人にはあるのだ。

時間とは何か、ずーっと考えてきた命題の一つだ。にもかかわらず、私はまだそれを考える手掛かりすらつかめていない。しかし、もう一つの命題であった言葉とは何かについては、最近ストンと落ちるようにわかったことがある。言葉は、人が自己と対話をするための媒体として生まれたのではないかということである。言葉は、人が他者と対話をするために必要な媒体として生まれたと一般的には考えられているが、実はそうではなく、自己と対話をするために生みだされたものであった。そうして、人が言葉を使って自己と対話を始めたとき、その相手を人は自己とは認識できず、なにか絶対的なもの、すなわち神と認識した。それが人にとっての、つまり言葉にとっての「神」ではなかったかということである。