コラム

プッシャー・ゲームの夢

2009年8月20日

 

夜中に目を覚ますとヤモリの鳴く声がした。キキー、キキーと間断なく続いている。どうやら一匹ではない。枕元にあった眼鏡をかけて目を凝らすと、天井に2匹這っている。タイの中部、ミャンマーとの国境沿いの町メーソートのホテルである。何時だろう。窓のカーテンを開けたが、外は真っ暗で、大蛇が這っているようにも見える大きな枝の茂みの向こうに、月の光に映えて青く水をたたえたホテルのプールが見えるばかりだった。

私は長い夢を見ていたらしい。夢の中でおびただしい人の群れの中に私はいた。私たちは特に整列しているという風もなかったが、奇妙なことにみな同じ方向を向いて立っていた。奇妙なのは、それだけではなかった。誰一人他の者と言葉を交わしていなかったのも不思議なことだった。しかし、決して静かな沈黙が私たちを支配していたわけではなかった。私たちは皆自分と対話をするのに忙しく、耳には聞こえないざわめきのような感覚が私たちをいつも包んでいた。群れは、後ろから押されて少しずつ前に動いていた。少しずつだが、有無を言わせない強い力で押されて、私たちは前に進むよりほかないのだった。前にいるたくさんの人たちを押しながら私たちは進んだ。そうして、気がつくといつの間にか私たちの前にいたはずの人たちが減っていて、私たちを後ろから押している人たちが増えていた。どうしたことだろう。

その理由がわかった時、私たちはもうかなり前の方に押し出されてきていた。わかったのは、私たちの立っている数十メートル先には切り立った崖があるという事実だった。そして後ろから少しずつ押し出されて、最後にはその崖から落ちていくのがどうやら私たちの決められた運命だということがわかった。私たちが前に進む力で崖から落下していく人たちが見えた。群れが進むたびに人が落ちて行った。じりじりと、少しずつ崖が近づいていた。私たちの最期が近づいていた。そうか、そうだったのか。人の一生とはこういうことだったのかと自分に言い聞かせたところで、夢から覚めた。

人の一生とは何か。長く険しい道を進むことによく例えられる。少なくとも年を重ねることは自分の力で前に進むことで、自分の力で進んで来た道が、その人の一生だと感じられていることが多い。しかし、感傷としてならともかく、真実はどうかというと、そうではない。人の一生は、酷薄にも後ろから、有無を言わせぬ力で押し出されるものである。ゲームセンターにあるメダルゲームで、メダルを投げ入れて落ちそうになっているメダルを押し出すゲームがあるが、あれを想像すればいい。プッシャー・ゲームというらしいが、人の一生も、メダルとして投げ入れられた時から、一方で他人を押し出しながら、自分も押し出されるゲームに参加させられているのである。