コラム

聖書と論語

2009年9月20日

 

行きつけの飲み屋でたまたま同席した物書きに、「あなたの本はトイレに置いて、ときどき読んでいます」と話しかけた。「トイレですか」と言いながら、その人の表情が少し不満げに見えたので、「トイレには私の一番大事な本を置いてあるんです」と言うと、ちょっと顔がほころんだので、少し間をおいて「聖書と論語です」と念を押すように言ったら、「それじゃあ、私もとうとうキリストや孔子のような世界の大聖人の仲間入りをしたんですね」と嬉しそうに言うので、大笑いになった。

それにしても、なぜトイレに聖書と論語なのか。自分でもよく分からなかったが、最近、白川静の『孔子伝』を読み返して、ああそうだったのかと気が付くところがあった。

「私が『論語』を教室の講義のためでなく、自らのために読んだのは、敗戦後のことであった。あの敗戦のあとの、やるせないような虚脱を味わわれた方には、理解していただけることかと思う。私の机辺には、いつとはなく、『論語』と『聖書』とがあった。別に思想としての要求や、入信を求めてのことではない。暗い海の上をひとりただようて、何かに手をふれておりたいという衝動があった。それには、どのような角度からでも接近できるものが、よかったのであろう。それで、順序も立てず、ながめるようにして読んだ。そして読むうちに、この二つの書が敗北者のための思想であり、文章であると思うようになった。」(『孔子伝』文庫版あとがきより)

孔子は偉大な人格であった、と白川静は書いている。孔子は理念を求める人であった。しかしその理念が現実に実現されることはなかった。現実の上では、孔子はつねに敗北者であった。しかし、現実の敗北者となることによって、よりいっそう孔子は理念に近づいたのであった。儒教は昔から政治権力や国家の支配体制に適合した思想と考えられているが、それは孔子の死後のことであった。孔子の高く厳しい人間精神の探求は、白川静がノモス的社会と名付けた政治権力や国家体制が織りなす世界とはむしろ反するものであったというのである。現代においては、ノモスはますます巨大化し、人々の精神に深刻な危機を及ぼしているという。どうやら、私もまた、知らず知らずのうちにノモス的なものを避けて、敗北者のための文章を求めるようになっていたらしい。