コラム
金の見まつがい
2009年10月20日
電車に乗っていたら、「他人ごととは思えないね。結婚は現代の病気だ。」というビートたけしの中吊りポスターが目に付いた。なるほど、うまいこと言うもんだと思いながら、でもいったいどういう意味だろう、ポスターに近づいてもう一度目を凝らしてみたら、見まちがいで、「結核は現代の病気だ。」だった。
行きつけの食堂に『金のいいまつがい』という本が置いてあって、手持無沙汰なときなどパラパラとめくって目を通しているが、これなどはさしずめ「金の見まつがい」だなと、ひとり可笑しかった。
言いまちがいは、豊かな内容と意味をもつ表現であり、そちらの方があるいは正直な行為かもしれないと考えたのは精神分析学者のフロイトだったが、フロイトの説が正しいとすれば、見まちがいの方にも豊かな内容と意味があるはずだ。
ほかに「金の見まつがい」はなかったかと、いろいろ記憶をたどってみたが、こうしてかまえて考えるとなかなか出てこないものだ。たくさんあったはずだが、結局いつもこうした場合に引き合いに出す友人のK君の例しか思い出せなかった。
K君は、そういえば現代の病気である結核でしばらく療養していたことがあったが、あるとき彼と新宿で待ち合わせた。「かなえ、という店があるから、そこにしよう。かなえの軽重を問うのかなえだから、間違うなよ。」といって、当日、鼎で待った。ところが、1時間経っても、2時間経っても現れない。その頃は携帯もなく連絡のしようがないので、何時間か待って、とんでもない奴だとあきれながら帰ったのだが、しばらくして彼からどうして来なかったのかと、怒りの電話がかかってきた。
怒りたいのはこっちの方だ。どこで待ってたのかと聞くと、「玉枝」という店だという。「たまえ」じゃなくて「かなえ」だよ、かなえの軽重を問うと言ったじゃないか。ひょっとして、鼎って字が読めなかったんじゃないか~。「バ、バカ言うんじゃない。か、かなえぐらい読めないわけないじゃないか。」じゃあ、どんな字か言ってみろよ~、というと、K君は、にょごにょご言ってしらばっくれていたが、やはり、「鼎」という字が読めずに店の前を通り過ぎて、「玉枝」の方に行ってしまったというのが真相のようだった。この見まつがいには、豊かな内容もへったくれもあったものではない。ただ、教養の乏しさがにじみ出ただけの、K君の見まつがいであった。