コラム

一世一代のボレーキック

2010年5月20日

 

十代のころ友達とキャッチボールをしていて、ナックルを投げたら見事に決まって股間を直撃、赤鬼のようになった友達からバットを持って追いかけられたことがあったが、ナックルが決まったのはあとにも先にもこのときだけだった。まあ、一世一代のナックルなどは決まったところで何の役にも立たないどころか、災いを呼ぶことさえあるくらいだが、中にはそうでないものもある。

これは、Kさんという女性に聞いた話。Kさんの言によると、「人は誰しも一生のうちで一度くらいは見事なボレーキックを決めるものである」らしい。もちろん、サッカー選手でなくともである。Kさんはある日、友達とカウンターに並んで居酒屋で飲んでいた。そこへ携帯が鳴ったのでKさんがバッグから取り出そうとしたとき、携帯が手から落ちてしまった。その瞬間、あろうことかKさんの右足は無意識にサッと出たのだそうだ。そして落ちる寸前の携帯を蹴りあげたのだ。するとそれが見事なボレーキックとなって、携帯はカウンターに居並ぶ何人かの間をヒューとすり抜け、離れたところに座っていた男の頬にパシッと命中した。

皆が一瞬静まり返る中、男は「痛い」ともなんとも言葉を発しなかったそうだ。ただ頬を抑えてKさんの方をジロッと見た。Kさんは男の顔つきから、きっとそのスジの者に違いないと確信した。Kさんは、もちろんすぐに謝りに行った。「ゴメンナサイ、ゴメンナサイ」。しどろもどろに釈明しながら、男の頬に携帯の跡が赤く付いているのを目にしたとき、Kさんは恐怖で涙が止まらなくなった。そして、男がポケットに手を入れた時、なにが出てくるのかと、Kさんの恐怖は頂点に達したという。

ところが、男のポケットから出てきたのは白いハンカチだった。男はそのハンカチをKさんに差し出しながら言ったそうだ。「隣に来て、一杯付き合ってくれれば勘弁してあげますよ」。それが、Kさんの今の伴侶で、やさしいサラリーマンだった聞くと、なんだかできすぎた話だが、誰でも一生に一度くらいはそういう話があるんですよとKさんはいう。

ふーむ。私はまだ一世一代のボレーキックを決めたことがないが、いつかそのときが訪れるのだろうか。