コラム
探しものはなんですか
2010年6月20日
去年の手帳と今年の手帳をセットにして使っている。どんな方法でセットにするか。ことと次第によっては手帳史上最大のヒット作となる可能性もあったのだが、結局そうならなかったのは、なんのことはない、ホチキスで綴じるのが一番便利だったからである。
この自家製「連年手帳」、もう10年以上も使ってすこぶる便利なのだが、反面紛失した時のショックも2年分の大きさである。つい先日、この手帳がかばんの中に入っていないのにふと気がついて、青くなった。自宅と事務所を行ったり来たりして捜し回ったあげく、すっかり気落ちしてしまい、うなだれて、机の下を見たらそこに手帳が落ちていた。ああ、よかった。しかし、疲れる。「そう、やっぱり足元をしっかり見なきゃなあ」、脚下照顧を地で行くような出来事に、可笑しくなって独り笑ってしまったが、それにしても、このところ探しものばかりしている。
あったはずの本、雑誌の記事、しまいこんだ書類、原稿、ゲラ、データファイル、知人の住所、電話番号、地図、メールアドレス、自分の眼鏡、名刺入れ、小銭入れ、電卓、はずした時計、マフラー、ハンカチ、手袋、携帯、鍵、ハンコ、暗証番号、ID、パスワード。いずれもだいたい自分の身の回りのどこかに埋もれている。探し物はなんですか。見つけにくいものですか。歌の文句がしじゅう頭の中を駆け巡っている。
紛失物回収サービスというのをベンチャーで始めた知人がいて、どうも需要が少なく苦戦しているらしいが、こういうものを探してくれるサービスなら、きっと繁盛まちがいなしである。そうそう、忘れてしまっている古い記憶も、ついでに探し出してもらえればうれしい。
人は忘れやすい生き物だから皆ノートを用意しなさいと言ったのは、確か魯迅だった。魯迅は人は年をとると若い時のことを忘れて若い人たちの言動を判断しがちだから、若い時のことを忘れないようにノートにでも書いておきなさいと確か言ったのだ。
しかし、魯迅のいうようにノートに残そうが頭に刻み込もうが、忘れるものは忘れる。それは忘れるというところにも人の本質や生きることの本質があるからではないか。