コラム
人は虚構なしに生きられない
2010年8月20日
京都で武者小路千家の千宗守氏の講演を聴く機会があった。演題は「茶の湯の真髄」。ちょうど大暑の日に当たっていたので、暑い中での茶の湯の稽古の話から始まった。それから、着物の話。着物は四季に合わせていろいろ組み合わせて着るようにできている、エコを先取りしたような衣装だという。茶の湯も季節への対処を大切にしている。そもそも伝統文化は四季の移ろいをベースに発展してきた。京都の家は、「夏を旨とすべし」というので、風通しを考えて南北に細長い「うなぎの寝床」になっている。京料理も、四季折々の食材を工夫して出すところに特徴がある。
いつの間にか、話題は京都の文化に移っていた。1,100年近く都であった京都は、何度も大火にあって焼けている。だから京都の文化はモノだけが残っているのではない。京都にあるのはたくさんのソフトである。茶の湯が盛んになってきた戦国時代。下剋上の世は殺伐としていたが、茶の湯は、四季の移ろいなどをきめ細かく取り込むことで、茶室の中に錯覚と精神的ショックをもたらし、戦国武将に本音を語らせる魔術のような作用をした。それが武将たちの調整に使われ、政治的に利用されたところがある。
茶の湯と聞くと、すぐに「わびさびの世界」を想像するが、そんなものくそ喰らえだ。まして、礼儀作法など無関係だと千宗守氏はいう。とすると、茶の湯の真髄はどこにあるのか。話はそこで終ってしまったので、あとは推し量るしかないのだが、どうやら、茶の湯の真髄は、現実とは異なるところに精神の別世界を作るという虚構性にあるようなのだ。
考えてみれば、私たちはしじゅう現実だけに向き合って生きているわけではない。仕事の合間にかばんの中から小説を取り出して読んでみたり、テレビドラマや映画、芝居に没頭してみたり、サッカーの試合に夢中になったり、音楽を聴いたり、絵や彫刻を見たり、テーマパークの乗り物に乗ってみたり、現実を抜け出して観光旅行に行ってみたり、そして茶の湯の世界に浸ったり。つまり、人は不思議なほど虚構の世界と常に隣り合わせに生きている。それほど、人は虚構を必要とし、虚構なしに生きられない生き物なのだ。茶の湯の話は、あらためてそういうことを感じさせた。