コラム
静かな原子爆弾
2011年4月20日
心に愛がなければどんなに美しい言葉も相手の胸に響かない、という聖パウロの言葉を思い起こした。菅総理や枝野氏をはじめ、原子力安全・保安院の係官、東京電力の役員や原子力の専門家など、テレビに出てくるいろいろな人の言っていることを聞きながらである。なぜ、この人たちの言葉には、こんなにも響くものがないのか。なぜ、この人たちの顔には、こんなにも真に迫るものがないのか。
しかし、これは多分この人たちだけの問題ではない。ここに表れているのは現代の私たちの姿であり、その姿をどんなに苛立たしく思おうと、どんなに失望しようと、戦後の65年間で日本及び日本人が達成したものなのだ。
それはテレビドラマの世界を見てもわかる。どんどん衰退していく和製ドラマに代わって、すっかり人気を集めるようになった韓流ドラマ。この違いは何か。おそらく、役者たちの言葉や顔の力の違いだと思う。韓国の役者たちに引き比べると、日本の役者たちの言葉と顔にはまったく力がない。韓流ドラマの、ストーリーは陳腐でも、韓国の役者たちの顔や言葉の力に人々は引き込まれるのだ。
戦後の65年間で達成したものといえば、原子力発電所もそうだ。日本は、広島と長崎に原爆を投下された世界唯一の被爆国でありながら、“静かな原子爆弾”ともいうべき原子力発電所を国内いたるところに建設してきた。考えてみれば、私たちはそれを見て見ぬふりをして、やり過ごしながら、北朝鮮のテポドンがどうのこうのとか、環境がどうのこうのと、“静かな原子爆弾”をそのままにして、もっともらしいことを話したり聞いたりしていたのだから笑ってしまう。北朝鮮のテポドンなんかよりはるかに危険な爆弾を国土のいたるところにちりばめていたのだし、それが爆発したら環境も何もあったものではなかったのにである。
ああ、おまえは何をしてきたのだと、死の灰を含んだ風が私に言う。原子力の専門家たちが、次々と自己批判し懺悔していると聞く。「こんなことになるとは、思ってもみなかった」。しかし、これも多分彼らだけの問題ではない。戦後の65年間で日本及び日本人が達成したものなのだ。そして、やんぬるかな。私たちはとうとう、その“静かな原子爆弾”の一つを爆発させてしまった。