コラム

時は流れて、時と知り

2011年8月20日

 

住みなれている町でも、それまで全く足を踏み入れなかった路地というのはある。そういう路地の中に、3か月ほど前からときどき行くようになった店がある。10人も座れば一杯になるカウンターだけの店だが、数種類の大皿に盛り付けてある料理が自慢の店で、その料理を目当てに来る客も少なくない。

最初のころ、誰も知った顔はいないだろうと思って入ったら、ちょっとだけ知っているAさんが連れと座っていた。「あれっ、こんなところに来てたんだ」と言ったら、「明日、北千住の方に引っ越すので今日は女二人で送別会なんです」。しんみりした答えが返ってきた。高円寺から北千住へ引っ越すというのはよほどのことだなあ。なにがあったんだろうと思いながら聞けなかった。

それからしばらく経ったある日、どこかで見かけた憶えのある人が、向かいの席に座っていた。奥さんと娘と娘婿ふうの人と一緒だった。勘定をして帰って行ったので、「あの人、医者じゃないですか」と聞いたら、そうだという。ああやっぱりN氏だ。「知ってる人ですか」。「多分」と答えたら、主人が「Nさん」と呼び返してくれて、十数年ぶりの対面となった。昔のことをいろいろ話していたら、「あの頃はかっこよかったんだよ、この人は」という。誰かと勘違いしているんじゃないかと思ったが、まあそういうことにしておこう。

それでひと月ほどして、Tさんという版画家と一緒に行ったときに、その話をしたら、そのNさんは昔Tさんが主婦をしていたとき一家の隣に住んでいた人ではないかという。いろいろ聞いてみるとNさん以外にはありえなかったので、世の中は広いようでほんとに狭いんだねという話になった。

路地には歌謡曲がよく似合うが、阿久悠の詩にこんなのがあるらしい。「夢は砕けて、夢と知り。愛は破れて、愛と知り。時は流れて、時と知り。友は別れて、友と知り」。失ってはじめてわかる。わかったときはもう後の祭りというわけだ。しかし、「生きているだけで既に幸せなのだよ」と哲学者のレヴィナスはいう。心からそう思えるようになりたいが、なかなかそうはいかない。