コラム
007になった先生
2013年1月20日
中学生の頃、上級生から聞いた英語のN先生の話に興奮したことを覚えている。N先生は陸軍中野学校でスパイの訓練を受けて南方で諜報活動をしていたという。英語の他にも数か国語に堪能で、拳銃やナイフも得意なので、CIAが誘いに来て困る、こうやって生徒に公言しておけばCIAも来ないだろうと話しながら、ナイフを使うところも見せてくれたそうだ。
直接習ったことはなかったが、時折見かけるN先生の風貌は小太りで腹が出ていた。あとで聞いたところでは偏食が過ぎて栄養失調になっていたらしく、映画に出てくる007のようなスパイの印象とはかけ離れていたが、外国から県に賓客が来るたびに同時通訳を務めていた。
去年映画化されてDVDになった『裏切りのサーカス』に、イギリス情報部のスパイを引退した語学の先生が出てきたので、N先生のことを思い出した。
『裏切りのサーカス』は、ジョン・ル・カレのスパイ小説『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』が元になっている。ジョン・ル・カレの作品に初めて出会ったのは、20代の半ばだった。その頃の仕事の上司でミステリーの翻訳をやっていた尾下さんに教えてもらって、『寒い国から帰ってきたスパイ』を読んだのが最初だった。以来ル・カレにハマって35年、といってもル・カレの作品は少なく、指をくわえている時間の方が長かったが、『スクールボーイ閣下』、『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』、『スマイリーと仲間たち』の三部作では、ル・カレの世界をすっかり堪能させてもらった。あの頃50間近だった尾下さんも、もう80近くになっているはずだ。いずれ小説を書くといっていたが、どうなったのだろうか。
高田馬場の駅を降りると、ホームに鉄腕アトムのメロディーが流れている。耳に残ってしまって、そのあとの鼻歌がつい鉄腕アトムになってしまう。いい年をしていても、漫画やニューミュージックに浸りきった年代層なのだとつくづく思う。年寄りばかりのカラオケでも、北島三郎や五木ひろしを歌っていた世代はいつの間にか姿を消し、ジュリーや吉田拓郎、松任谷由美がかかっている。高齢者が「ビッグコミックオリジナル」を読んでいる風景も珍しくなくなった。そのせいばかりではないだろうが、今の年寄りは昔の年寄りと比べると、年寄りらしさという点でいかにも見劣りがする。現代日本にあふれているのは、成熟できないまま年を取ってしまった私のような年寄りたちなのだ、きっと。