コラム
南 瓜
2013年6月20日
久留米への出張の帰り、少し時間があったので、久しぶりに博多に寄って、大濠公園の中にある福岡市美術館に草間彌生展を見に行った。いまや日本を代表する前衛芸術家である草間彌生の展示は多く、あちこちで開催されているが、福岡市美術館では今のように大ブレークする前の1952年から1999年までの作品を展示しているところに興味を引かれた。草間彌生の作品は生き方と分かち難く結びついているといわれるが、展示は草間彌生の23歳から70歳までの作品である。私が持っている草間グッズは黄色に黒の斑点のあるカボチャのぬいぐるみだけだが、その原型ともいうべき1994年の作品『南瓜』は、屋外に展示されていた。本物の草間彌生には、仕事で弁天町のアトリエにお邪魔したときに軽く会釈した程度だが、全身から発する「選ばれてあることの恍惚と不安」には並々ならぬものを感じた覚えがある。
福岡市美術館の常設展をのぞくと、福岡は久留米出身の画家、青木繁、坂本繁二郎と並んで古賀春江の絵が展示されていた。古賀春江は画集でしか見たことがなかったので、本物を見ることができたのは収穫だった。郷里の鹿児島出身の画家はと見ると、黒田清輝、海老原喜之助、藤島武二が展示されている。その他に東郷青児もいるのだから、鹿児島がかつて綺羅星のごとく画家を輩出していたことに驚かされる。
帰りの飛行機の中では、山本周五郎の『樅の木は残った』の下巻を読み終わった。『新潮文庫の百年』で取り上げられていた100冊の新潮文庫の中で、まだ読んでいない本が3冊あったが、その中の一つが『樅の木は残った』だった。『樅の木』はテンポがよく、あっという間に全巻を読み終えたが、小説というのは魅力的な主人公をこんな風に、とにかくかっこよく書いていけば、できるものなのだなとあらためて認識した。
他の2冊は、宮部みゆきの『火車』と三浦哲郎の『忍ぶ川』である。『火車』は、サラ金の取立てにあって凄惨な人生から逃れるために他人に成り代わって生き延びる若い女性の話で、読み応えがあった。「志乃を連れて深川へ行った。」で始まる『忍ぶ川』は、特にどうということのない小説だったが、「志乃は忍ぶ川の女であった。」というくだりが、やけに印象に残った。