コラム
いつも読書する日
2013年7月20日
子どもの読書を推進する法律があるのを知って驚いた。正確には、『子どもの読書活動の推進に関する法律』(平成13年12月12日法律第154号)という。
子どもの頃から読書が悪癖のように身に付いて、親や先生から「本ばかり読んで勉強もしない」と叱られることが多かった身としては、複雑な気分である。年を取って、親や先生のいうことが、いちいちもっともだったと思いだされることが多くなってくると、なおさらである。
だいたい、読書は、そんなに国を挙げて推進しなければならないほどのものなのだろうか。だいいち読書は、子どもにとってそんなに好ましいものだろうか。まあ、勉強しない子どもは読書がなくても勉強しないので、それは読書のせいではないが、読書によってなにか得られるものがあるかというと、はなはだ疑わしい。自慢じゃないが、読書のほとんどは、安上がりな娯楽か、時間つぶしに過ぎない。
哲学者のヘーゲルは子どもの頃から、本を読むとかならずその内容をノートにまとめておく習慣があったそうだ。本を読む人にとって必要なのは、本当は読書そのものより、それをノートにまとめることである。読んだことを養分にするためには、書かなければならない。書くことによって、はじめて娯楽や時間つぶしの域を脱することができるのだ。しかし、そういってみたところで、誰もヘーゲルのようにはできない。私も含めて、ほとんどの人は、本を読み飛ばすだけで、結局何も残らないのだ。
ところで、池波正太郎の『剣客商売』だけは手を出すまいと思っていたが、とうとう手を出してしまい、案の定止まらなくなってしまった。読みやすいことといったら、スポーツ新聞や漫画以上で、かろうじて読書というレベルである。朝、起きぬけに一編、夜寝る前に一編、その間に電車の中や、駅のベンチ、ちょっとした時間の合間に読むだけで、一日に一冊は読み終わってしまうので本屋に買いに走るのにせわしない。
読書といえば、田中裕子と岸部一徳が出演した映画で『いつか読書する日』というのがあったが、タイトルだけで見たくなる映画だった。読書という言葉が、こんなにも効果的に使われている例も珍しい。