コラム
悪い田中
2013年11月20日
新宿ゴールデン街のひと頃よく行っていた店の30周年記念パーティがあったので顔を出した。最近はすっかり足が遠のいてしまったが、私が通っていたころ、その店には田中という常連客が3人いた。「良い田中」、「悪い田中」、「普通の田中」の3人である。その中の、「良い田中」には結局会うことがなかったが、「悪い田中」には何度か遭遇したことがある。「悪い田中」は、素寒貧で金払いが悪いらしく、「悪い田中」が来ると、昔大部屋女優をしていた店主をはじめ店の女性陣が、「悪い田中が来た。悪い田中が来た。」と大はしゃぎで取り囲み、「あんたいつ払うの」と責め立てるのだが、「しばらく見なかったけど、どこほっつき歩いてたのよ」と、ときに世話女房風の言葉を掛け、「お財布にいくら入ってるの。あら千円札一枚きりじゃない」とか、きゃあきゃあ言い合いながら、盛り上がっていた。「普通の田中」の私より、「悪い田中」の方がよほど歓迎されているのであった。
新宿ゴールデン街に初めて足を踏み入れたのは、20代の前半の頃で、作家の田中小実昌さんに連れられて行ったのが最初だった。店を何軒もハシゴして、最後にたどり着いたのが『けんかえれじい』の鈴木清順監督の奥さんがやっていた店だったのを覚えている。
田中小実昌さんの小説では、最近読んだ『岩塩の袋』という短編が面白くて妙に印象に残った。『岩塩の袋』は、太平洋戦争の末期に、中国の南京に着いた初年兵たちが背嚢に岩塩を背負わされて、貴重なものだから何があってもこれだけは捨てるなといわれて、中国の奥地に行軍していくのだが、目的地に着いた時には岩塩は塩気が亡くなっていて道に捨てるしかなかったという話である。そのときに聖書のマタイ伝にあるイエスの言葉を初年兵である主人公が思い出すのである。
「汝らは地の塩なり、塩もし効力を失わば、何をもてか之に塩すべき、後は用なく、外に捨てられて人に踏まるるのみ」
そして、それまでは、「塩もし効力を失わば」というのが、どういうことかわからないでいたのが、こういうことだったのかと主人公はわかったという、それだけの話なのだが、地の塩である私は、この話がおかしくて、しばらくは頭から去らなかった。