コラム
歴史は家の中で創られる
2014年3月20日
現実の政治への関心がとみに薄らいでいる。昔に比べると政治家が面白味に欠け、肩入れしたくなる政治家がいなくなったということもあるだろうが、どうもそればかりではないようだ。大事なことは政治などにあるのではなく、家の中にある、というのが実感としてだんだん膨らんできているからではないかと思う。それは、私だけでなく、多くの人がそういう実感を共有しているのではないかと感じる。
人の歴史を考えるとき、歴史の教科書などを開くと、大化の改新とか明治維新とかフランス革命とかロシア革命とか、ほとんど政治的なことがらが中心になっている。それで私たちは政治が歴史の本体であるかのように思い込んでしまうが、実は政治は歴史の上澄みのようなものであって、歴史の本体ではない。
歴史の教科書というか、歴史学は記録に残っているものを対象にしているから、政治を中心にせざるを得ないのであって、記録に残っているもの、目に見えるものが歴史のすべてではないし、まして歴史の中心ではない。そういう意味では、歴史の教科書や歴史学は、歴史の表層、歴史の上っ面をなでているだけで、必ずしも歴史の本体をとらえているわけではない。
歴史の教科書が教える政治は、そもそも政治をする側の政治であって、政治を受入れる側の政治ではない。しかし、どのような政治も、それを受入れる人々がいて、受け入れる感じ方や考え方があって、初めて成立する。というより、その時代その時代の人々の感じ方、考え方がその時代の政治を招き寄せているのである。
そういう、時代時代の人々の思考様式や意識構造、生活様式や生活習慣などから成っているのが、歴史の本体だと思う。それは太古の昔から今に至るまで、人々の日々の生活の中で形成されてきた。たとえば家の中の親と子、夫と妻、兄弟姉妹の間のやり取り、親戚づきあい、近所づきあい、友人づきあい、学校や職場でのやり取り、などによって、日々、歴史の本体が形成されて来たし、今も形成されている。まさしく、歴史は家の中で創られているのだ。
そう思うと、歴史の表層、歴史の上澄みに過ぎない政治などに対する関心は、どうしても薄れていかざるを得ないのである。