コラム
選択しない幸福
2015 年3月20日
古代ギリシアのアテネでは、公職はある時から選挙ではなく抽選になったという。これは政治権力の独占を防ぐためだった。選挙になると、公職に強い動機を持つ者が立候補して、その中から選ぶしかなくなるが、そもそも公職に強い動機を持つことに問題があったからである。ただし、軍人だけは抽選にしなかった。熱意のない弱い軍人に任せて戦争に負けたら困るからだ。それでも、公職に強い動機を持つ者が現れることがあったので、陶器のかけらに権力者になりそうな者の名を書かせて無記名投票する陶片追放によって、10年間国外追放することで防いでいた。
現代の我が国の制度と比べた場合に、この古代のアテネの制度が、見劣りするとは思われない。抽選によって、みな平等に公職に就く義務と権限を与えられたら、裁判員のように、誰もが粛々としてその運命に従い、順番に議員をするだろう。そうすれば、少なくとも、公職に強い動機を持つ人たちが何代にもわたって政治権力を独占することは防げる。
現代という時代は、人が何でも選択できることをよしとして尊重する時代だが、本当に自由に選択できることはいいことだろうか。たとえば、職業を自由に選択するのが義務になってから、おまえにも何か好きなものがあるだろう、何か向いてるものがあるだろうと、個性を強要され、人は無理にでも自分探しをしなければならなくなった。「おまえ、ほら、バンドがやりたいって昔から言ってたじゃないか」とか、「ゲームクリエイターになりたいって、夢をかなえろよ」といわれて、高田馬場あたりの、その手の学校に通わせてもらったりしても、そんな仕事などないか、あってもきつくて長続きせず、その果てに、ニートというか、職業を選択できない者が多く現れるようになってきたのである。抽選のようにして、ハナから職業が決められていた時代の方がまだしも幸せだった。
また、配偶者を自由に選択するのが義務になってきてから、おまえにも好きな人がいるだろう、好いてくれる人がいるだろうと自由選択を押し付けられる一方で、誰も世話してくれないので、自分で探さなければならなくなった。しかし、こんなものは自分で選択していい結果が出せるわけはなく、その果てに結婚が忌避されるか、失敗して離婚する夫婦が多くなってきた。抽選のようにして、決められた相手と結婚していた時代の方が、ほとんどの結婚はうまくいっていたのである。