コラム

センチメンタル・ジャーニー

2016年9月20日

 

確かこの倉庫が立っているあたりに、あのころは土俵があった。田舎に帰ったついでに、昔住んでいたあたりにみんなで行ってみようということになり、車を飛ばして来てみたのだ。今は市町村合併で地名も変わり、家ももちろん建て替えられていれば、住んでいる人も変わっている。それでも、何か昔をしのばせるものがないかと思い、公民館が立っていたあたりに来てみると、景色はすっかり変わってしまっていたが、記憶がよみがえってくる。そうだ、土俵があった。そこで毎年秋になると、小学生だけの相撲大会が開かれていた。土俵を照らし出す裸電球のあかりと、激しくぶつかるたびに飛び散る汗。土俵を取り囲む子どもや親たちの歓声がやけに大きかった。ひと月も前から懸命に稽古をして臨んだ本番だったが、それはただの相撲大会ではなかった。だれ一人負けられない雰囲気があった。それは子ども相撲が大人たちの賭けの対象になっていたからだと私が知ったのは、だいぶ経ってからである。

それから、通っていた小学校があった辺りにも行ってみた。年配の先生がおられたので、昭和40年ごろ在校していて、その頃は校庭に大きなサボテンの木があって、裸足で校庭を駆け回るとサボテンのとげが刺さって大変でしたという話をするが、先生はきょとんとしている。先生が案内してくれたのは、平成元年に植えたというモチノキで、それもすでに10メートル近い大木に育っていた。帰りがけに、啄木の歌を思い浮かべた。「その昔 小学校の柾屋根に我が投げし鞠いかにかなりけむ」だ。

岬の灯台にも足を伸ばした。灯台の手前に篠原鳳作の句碑があり、その句碑を背にして、若かったころの母と私と幼い弟の3人で撮ったセピア色の写真が出てきたのだ。自分で言うのもなんだが、私は写真の真ん中に立っている聡明そうな少年が10歳の自分だとわかったとき、なぜそのまま真直ぐに生ききれなかったのかと今の自分を殴りつけたくなった。

句碑には、「しんしんと肺碧きまで海の旅」の他2句が刻まれていただけで、篠原鳳作の代表句である「蟻よバラを登りつめても陽が遠い」は刻まれていなかった。きっと選者は口語体の句に抵抗があったのだろうと思いながら、岬を後にした。