コラム
時間の問題
2025年3月19日
中央線沿線の、ときどき髪を切りに行く店の夫婦が、「もう時間の問題ですよ」などという。四十年、髪を切るためだけに通い続けて、店の夫婦もすっかり年を取った。「僕の髪が肩まで伸びて〜♪」どころか、背中まで伸ばしていた時代が幻のように思える。いつかは、「もう切るところがないですよ」と最終宣告を受けるときが来るだろうと自分でも覚悟はできていたし、そのときがもう近いのだなと観念して、首を洗って待っているような心境になっていると、夫婦の話はそのことではなかった。
夫婦の言う時間の問題は、髪ではなく、「新聞やテレビがなくなるのは」だそうである。店の夫婦は、あるときから思っていることをはっきり言うようになった。それはこっちが思っていることをはっきり言うようになったことの相互作用だと思う。それにしても、夫婦はどのようにしてそんな確信を得ているのか。新聞やテレビのことをマスゴミといってはばからない。
たしかに、このところめっきり新聞を読まなくなった。考えてみると、ろくに字も読めない頃から広げていた新聞を、もう広げなくなっている。何がそうさせているか、いろいろ考えを巡らせているが、なにかがそうさせている。
テレビも、うるさいコメンテーターの口にチャックをしたくなることが多く、ドラマはドラマで同じ役者が役柄を変えて繰り返し出ているのが気になりはじめたらもういけない。フジテレビの事件が起きる前からすっかり遠ざかっていた。NHKも、朝ドラの違和感から始まって、報道もなんだか底意が感じられるようになり、見なくなってしまった。友人に電話して、そんなこんなを打ち明けると、友人は輪をかけて、「NHKも、もう最後の断末魔だよ」などと恐ろしいことを言う。
僕の持論では、大学アカデミズムとマスコミジャーナリズムは、互いに補完しあって、知の世論形成、世論操作を図り、現代社会の知の支配構造、権力構造を支えている重要な機関なのだが、その一角が崩れようとしているのだろうか。