コラム

不機嫌な未来

2024年9月20日

 

私は自分が目の前にあるものをあるがままにしか描けない画家であることはわかっている、と今度生まれてくるときはそう述懐できるような画家になりたいと思う。その実、目の前にないものを描いた数多の作品を隠し持っている画家にである。

 

と、これはもうまったくの願望もしくは妄想に過ぎない。現実の私は絵の才能にまるで恵まれていないばかりか、そもそも絵を描くことにほとんど情熱を持っていない。

 

なのに、なぜ画家になりたいか。絵は文字の世界を完全に包摂して、文字の世界を凌駕するのものだと今になって思うようになったからである。

 

フィンランドの画家ヘレン・シャルフベックを描いた映画『魂のまなざし』で、一番心躍るシーンは、世に隠れ住む貧しい中年女性の絵かきが年老いた母親と暮らす小さなあばら家に画商が訪ねて来て、そこにほこりまみれで置かれていた159枚の絵を発見したときである。それ以外のシーンは付け足しの付録のようなもので、主演のラウラ・ビルンをずっと見ていたいと思う者のためにあるといっていい。

 

フィンランド生まれのラウラ・ビルンは、明るい肌で金髪、青い目の女性だが、その昔、ヨーロッパ人の肌は濃い褐色で、髪も黒い髪だったのだそうだ。それがいろいろな人種がまじりあって淘汰され、ヨーロッパも今のような明るい肌、金髪、青い目の組み合わせが占めるようになったのだという。

 

友人のKに言わせると、「だから、明るい肌、金髪、青い目というのは、人類にとって普遍的に好まれる性質なんだよ」。じゃあ、日本人の黄色い肌、黒い髪、黒い目はどうなの。「普遍的に好まれる性質とはいえない」。そうかなあ。「でも、日本人の女性は特有の文化があると思われていて、文化で好まれている」。日本人の男性はどうなんだろう。「日本人の女性以外からは好まれない」。まいったね。「これまでは国境に守られて日本人の女性に好まれていれば足りたのが、国境がなくなってしだいに日本人の女性にも好まれなくなってくると、不機嫌な未来が待っているだけだ」。ああ、だから君はいつも不機嫌なんだね。