コラム

自分が生きた証

2018年1月20日

 

一生働かなくていいという人の暮らしはどんなだろうと思う。働かなくていいといっても、ぜいたくな暮らしをしながらのものと、つましい暮らしをしながらのものとは、おもむきがだいぶ違う。

 

ぜいたくな暮らしというと、作家の永井荷風を思い浮かべる。荷風は、父親から受け継いだ新宿区余丁町の敷地千坪の屋敷を売り払って放蕩三昧の暮らしを続けた。荷風の『墨東奇譚』はつまらないという人もいるが、私は好きで、これまで何度読み返しただろう。荷風が亡くなる前日まで書いていた『断腸亭日乗』の断腸亭は、余丁町の屋敷の離れを指している。俳人の岡本癖三酔も父親から莫大な財産を受け継いでいる。慶応幼稚舎から慶応大学を出たあと、麻布の大豪邸に昼間から雨戸を閉め切って二十年間引きこもった後、にわかに外で豪遊するようになり湯水のように散財したという。

 

それで、ちょっと見には、ぜいたくな暮らしの方がうらやましく映るが、案外とつましい暮らしの方が、生活が荒れないので気持ちの上では楽なのではないかと思う。

 

仕事をする必要がないという生活は、退屈なものではないかと思うのは、働かなければならない者の僻目かもしれない。

 

大学にもそんな同級生がいたのを思い出した。数年前に小旅行を一緒にして同室になったときに、六十近くになってまだ一度も働いたことがないという話をしていた。なんでも親の会社を弟が継いでいて養ってくれるので、兄である彼は働かずに、カントの研究をしていると半分自慢するような、半分恥じ入るような表情で話していた。その研究の成果が大学ノートに十数冊にもなっていて、それが自分が生きた証だというようなことをボソッといっていた。

 

余計なことだが、彼の生活を想像してみる。朝、カントがそうであったように、きっかり五時に起きて、シャワーを浴び髭をそって身支度を整える。六時にコーヒーを淹れ、トーストを焼いてバターを塗っただけの簡単な朝食をとりながら、たっぷり一時間かけて新聞を隅から隅まで読む。七時、机に向かってカント全集の決まったページを開く。もう何十年も続いている習慣である。「善なる意思は、みずからの中に全価値を持つものとして、一つの宝石のように、それだけで光り輝く」。声に出してみる。そしておもむろに大学ノートを取り出し、そこに書かれている昨日までの思索の成果を確かめる。それからまた、自分だけに聞こえてくる実践理性の声に耳を傾けるのである。