コラム

石田君のこと

2023年8月18日

 

不思議なことに、今頃になって、石田君のことをよく思い出す。石田君は一浪して入った鳥取大学の医学部の屋上から飛び降りて死んだ。僕に宛てた遺書があるという話だったが、それは届かなかった。僕もそんなに求めなかった。その頃は、いろいろな死が身近にあり、僕も死ぬことばかり考えていたようなところがあって、読まなくても分かる気がした。

 

僕たちは高校の演劇部で知り合った。演劇部には大坪さんという二十歳を超えた主(ぬし)のような人がいて、仕切っていた。大坪さんは選挙がある度に授業中に手を挙げて「先生、選挙に行っていいですか」と聞き、先生は予期していたように「早く行ってこい」と答えていた。

 

大坪さんの演出で僕は清水邦夫の『署名人』という芝居の主役をやって、石田君たちが脇役を努めた。芝居が引けた後の打ち上げで、大坪さんの行きつけの焼酎屋に行って、真っ赤になりながら石田君が「田中、よかったよ。」と言ってくれたときは嬉しかった。それから、僕たちは仲良しになった。

 

石田君は医者の息子で、父親の期待に応えようとしていた。石田君の下宿先は学校の校門のすぐ近くにあったので、僕はよく授業を抜け出して石田君の部屋にさぼりに行った。石田君は理科系だったので授業に出ていることが多く、僕はサルトルや、サミュエル・ベケット、ハロルド・ピンターなどの本を持って行って読みふけった。石田君の持っていた永島慎二の「フーテン」を読んだのもその部屋だった。石田君も僕も永島慎二の「フーテン」の世界に魅かれた。

 

翌年、僕たちは高校演劇コンクールの審査がおかしいとかみついた。「審査員たちはサルトルを読んでいるのか。サミュエル・ベケットを知っているのか」。審査員たちは、答えられずこそこそと逃げて行った。翌日、審査員たちから抗議があったと先生から告げられた。

 

あれから、あっという間の半世紀、邯鄲の夢ほどにもないパッとしない50年で、何か意味があったともあまり思えないけど、僕はねえ、石田君の分までずいぶん長く生きたよ。