コラム
好きになった人
2023年5月19日
歌手にはピークがある。ちあきなおみが、死期を悟った動物のように、人々の前からすーっと消えたのは、それを感知したからかもしれない。都はるみは、三十五歳がそのときだった。「普通のおばさんになります」と引退宣言して、1984年12月30日に新宿コマ劇場でラストコンサートをやっている。そのときの都はるみの流し目の表情の一つ一つ、手の動き、足の運びの一挙手一頭足にしびれない者はいない。前に出て後ろに退く独特のすり足がなんともいえない。ミヤコ、ミヤコと、感極まったように叫ぶオヤジファンたちの声が、うるさいが、許せる。
以後、都はるみは含羞を失った。あの美空ひばりの歌がどんなに達者でもそうだったように、含羞を失った都はるみの歌は、もう昔の歌ではなくなった。
我々は理性で生きているのではない。情念で生きている。忘れてはいけない。1984年以前の都はるみの歌は、そのことを思い出させてくれる。
1975年に池袋の大衆酒場の二階に十数人で集まって、解散式のようなものをしたとき、皆で歌ったのが、「さよ~な~ら、さよ~なら」と歌う『好きになった人』だった。以来、五十年経つが、その中の誰とも再会していない。時代というのはそういうものだし、人の生き死にというのはそういうものだし、めぐり合わせというのはそういうものだし、それでいい。
1976年、キューポラのある川口の町の、鋳物工場で働きたいとあちこち回ったが、どこも断られて途方に暮れていたとき、どこからともなく聞こえてきた『北の宿から』。「あなた死んでもいいですか」と歌う、「あなた」は神様のことかとふと思った。
1979年、沖縄の、那覇の、古波蔵の、国場川のほとりの、西日の当たる安アパートで、ついにここまで来たかとしみじみ振り返ったとき、ラジオから流れていた、「今夜も汽笛が、汽笛が、汽笛が…独りぽっちで泣いてい~る」、『涙の連絡船』だった。
日本浪漫派の歌を今でもときどき口ずさぶ。「この道を泣きつつ我の行きしこと、我が忘れなば誰か知るらん」。