コラム
一冊の旅の重さ
2023年4月20日
出張に文庫本を一冊持っていこうと思って、どっちにしようか迷った。『昭和の名短編』か、『小林秀雄初期文芸論集』。『昭和の名短編』は荒川洋治編で、田中小実昌の「ポロポロ」、吉行淳之介の「葛飾」、志賀直哉の「灰色の月」など、何度読み返してもいい名短編の粒ぞろいだが、一番好きなのを一つ選べと言われたら、中野重治の「萩のもんかきや」である。萩の町を歩いていて見つけた奇妙なもの。それは紋付の紋をかくという「もんかきや」だった。商売としてはひどくはかないものに思われ、「もんかきや」の板の下に「戦死者の家」と打ち付けてあるから戦争未亡人らしい、外からは高い鼻くらいしか見えないが、鼻筋の美しい若い女性が小さな細筆を握って一心にやっているのを目にして、見ていられないような、つらい気持ちになって通り過ぎる。
『小林秀雄初期文芸論集』の方は、「吾々にとって幸福なことか不幸なことか知らないが、世に一つとして簡単に片付く問題はない」が書き出しの「様々なる意匠」から始まる。「様々なる意匠」は、昭和四年、雑誌『改造』の懸賞に応募した論文だったが、後に共産党の議長になる宮本顕治の「敗北の文学」が首位に選ばれ、次席に甘んじたことで知られている。高校生のころ二つを読み比べて、なんとなくわかった風な気になったことを思い出した。
旅の気分を味わうには「昭和の名短編」だが、こういう機会でもないと「小林秀雄」を読み返そうという気にはならないだろうし、ということで「小林秀雄」にしたが、結局飲んだくれてしまって、余計な荷物になっただけだった。
帰ってきて、何の気なしに、O・ヘンリーの5つの短編を映像化したオムニバス映画『人生模様』を見ていたら、なんと映画の幕間の解説にあの『怒りの葡萄』のジョン・スタインベックが登場してきて、思ってもみなかった実写版のジョン・スタインベックに出会うことができた。
ジョン・スタインベックの語りかける様子からも、同じアメリカの作家でもヘミングウェイのように上昇志向や物欲の強い人ではなかったことが伝わってくる。それでも、ジョン・スタインベックがそのどちらにも恵まれたのは、よほど人にも神にも愛されるべき巡り合わせの持ち主だったのだろう。