コラム

子どもの春秋

2023年3月20日

 

損得勘定で言ったら、子を持つことの損失は計り知れない。昔の人は、子を持つことを損得ずくで考えなかった。だから、後先も考えずに皆、子を生したのである。以前から度々引き合いに出しているが、世界の意識調査で、日本人は最も、それも突出して、損得勘定でものを考える民族になっているのだという。とすると、子を持つことを経済的利益で釣るのは理にかなっているのだろうが、よっぽど積まないと、子を持つように仕向けることは無理ではないか。もっとも、子を持つことの恐ろしさを知っている親にとっては、いくら積まれても、ごめんこうむりたいだろう。

 

一方、親の方が損得ずくなら、子の方も負けず劣らず損得ずくである。今の子は、生まれる親を選べないことを、「親ガチャ」とか「毒親」とかいって、どういう親の下に生まれたか、生まれた時点で既に「アタリかハズレ」、つまり損得が決まっていると考える。早い話、もう昔の素朴な子どもではない。子どもも変わってしまったのだ。

 

変わってしまったといえば、今の女性も昔の女性からすればずいぶん変わってしまった。1980年代、吉本隆明と埴谷雄高のコムデギャルソン論争で、吉本隆明が、雑誌「アンアン」を評して、「先進資本主義国日本の中級ないし下級の女子労働者は、こんなフャッション便覧に目配りするような消費生活を持てるほど豊かになったのか、というように読まれるべきです」と言ったことがあった。今からすると、言葉の使い方がなんとも時代錯誤的で、当時の時流を彷彿とさせるが、その頃は、まだ女性たちに強靭な精神力で不利な立場を引き受けるだけの内面がいくらか残っていた。

 

それから40年経って、女性のファッションだけは確かに洗練されたものになった。高校生のころ、田舎の市電に乗ってファッションが麗しいと思えたことは100回に1回もなかったが、今は麗しいと思えないことが100回に1回もないくらいだ。しかしその洗練されたファッションの内側で、不利な立場を引き受けていた強靭な精神力は完全に消え失せて、頽廃に蝕まれた空虚な内面が見え隠れするだけである。テレビなどに出てくる人は、総じてそれ以外には見えないが、道を歩いている普通の人までが皆そう見えてしまうので、なるべく目を伏せて見ないようにしようと思う。