コラム

小滝橋界隈

2022年4月20日

 

沖縄の伊江島で小型機が墜落したというニュースを聞いて思い出した。伊江島は若い頃、二度訪れたことがある。一度目は、その頃一緒に仕事をしていた伊江島出身の人の帰郷に付いて行った。伊江島は、旧日本軍の飛行場があったため米軍の猛攻撃を受けて多くの島民が犠牲となったが、占領後は米軍の射爆場として使われていた。沖縄本島の本部港からフェリーで半時間。帰りに伊江島の波止場の売店でビールのつまみにサザエの壺焼きを頼むと五百円でバケツ一杯もあった。

 

二度目は、「旅行アサヒ」といったと思うが、旅行雑誌の取材でカメラマンと二人で行った。カメラマンの名前は、確か屋良さんだ。撮影場所を求めて、岩山に登ったはいいが、勾配が急で降りるのに苦労したのを覚えている。カンボジアのアンコールトムで、塔から降りるときに足がすくんだのと合わせて忘れられない。岩山のスケッチをしようと思ったが、うまく描けず、なにか、根本的なものが欠けている気がした。

 

その後、ヴァレリーの『ドガダンスデッサン』を読んで、思い立った。そうだ、デッサンをやろう。「デッサンとはかたちではない。かたちの見方なのだ」。小滝橋の近くに大村連先生の絵の教室があった。教室は大きな銀杏の木がある屋敷で、いつも中高生が数人と年配の女性たちが二、三人いて、すぐに顔なじみになった。木炭デッサンをやっていたのは私一人だけで、ほかの人たちは油絵をやっていた。

 

そのときは全く知らなかったが、その屋敷はロダンの日本人最初の弟子である彫刻家の藤川勇造と妻で画家の藤川栄子が住んでいた家で、大村連先生の奥さんが藤川夫妻の一人娘だったことを最近になって知った。今でも近くを通ることはあるが、四十年も経つと、屋敷の跡はマンションが建っていて、もう昔の面影はない。

 

藤川栄子は高松の出身で、奈良女子高等師範を途中で辞めて上京したとき同郷の菊池寛の家に下宿したと記録にある。早稲田通りをはさんで斜向かいに住んでいた佐多稲子とは頻繁に行き来していて、その縁で目白の宮本百合子とも交流があり、中井の林芙美子の家もその延長線上にあった。『二十四の瞳』の壷井栄も界隈に住んでいて、一緒に戸塚から小滝橋に向かって談笑しながら歩く藤川栄子の写真が残っている。そのときの二人の表情があまりに晴れやかなので、思った。昔の人は皆いい顔をしている。