コラム

銅鐸のなぞ

2021年12月20日

 

政治家を引退した亀井静香が、なにかの番組で「デジタル化がどんどん進んでいくのなら、この世とおさらばしたい。そんな社会は住むに値しない」と言ったとかで、「よくぞ、言ってくれた」と感じる向きも少なくないと思うが、テレビ出演者らにはとんでもない妄言に聞こえたらしく、本人退席後に悪口大会になったと報じられていた。

 

19世紀の初め、産業革命のイギリスでは機械や工場の普及が進む中で、この流れに抗して機械や工場を破壊するラッダイト運動が起きたことはよく知られている。詩人のバイロンは、ラッダイトの人々をアメリカの独立運動と同様に自由を求める人々として讃える詩を書いているが、イギリス政府は厳罰をもって臨み、多くの者を懸賞金をかけてまで捜し出して処刑している。

 

このラッダイト運動になぞらえて、今のITの普及やデジタル化などの流れを止めようとする考え方はネオ・ラッダイト運動と呼ばれている。情報化社会の進展によって、少数の勝者と多数の敗者の二層化が進み、家庭やコミュニティも商業的価値観に基づいて外注化され選択されるようになってしまった社会。もはや、住むに値しないとしか言いようがないのかもしれない。

 

時代の流れに抗するのは、古今東西、世界のどこでも、どの時代でもあったことで、最近、考古学者寺前直人の『文明に抗した弥生の人びと』を読んで、弥生時代の人々が青銅器を使うことに抵抗を示して石器を使い続けたと述べていることを知った。

 

とりわけ興味深かったのは、銅鐸についての話である。銅鐸は、前々から祭具としても不思議な金属器だとは思っていたが、弥生の人々がわざわざそうしたのだという。青銅器を実用的な武器や工具として普及させてしまうと、持つ者と持たざる者の間に格差ができてしまい、それまでの平等な社会関係が壊れてしまう。それで、青銅器は武器や工具には使われないように、非実用的な祭具として大型化させたのが銅鐸だった。弥生の人々は、武器や工具としては石器を使い続けることで、文明に抗したというのである。