コラム
浪花節だよ、人生は。
2021年6月17日
ビルマ難民キャンプへと続く山道である。キャンプへは、2009年から毎年のように行っているが、何度同じ道を通ったことだろう。タイとビルマの国境沿い、タイ側の山岳地帯にへばりつくようにしてビルマ難民キャンプがある。
降ったばかりのスコールに濡れて、あたりの樹々は光っていた。現地のドライバーが運転する車の助手席でウトウトしながら、私は古処誠二の『いくさの底』を思い出していた。『いくさの底』は、ビルマを舞台にした旧日本軍の戦場ミステリだが、私は読み進めようとするたびに苦しくなってそれを何度も閉じた。のどかな日本の町や村から、ビルマの山中に連れて来られた旧日本軍の兵隊たちの境遇を思うと、憂鬱でたまらない気持ちにさせられたからである。
ビルマがミャンマーというようになったのは、1989年にクーデターを起こした軍事政権が国名を変えてからである。しかし、古い世代にとっては、ビルマの方がなじみが深い。やはり、『ビルマの竪琴』は、『ビルマの竪琴』でなければならぬ。『ミャンマーの竪琴』では、水島上等兵が泣く。
ところで、自分では司馬遼太郎の作品はなるべく読まないようにしてきた。とりわけ、『坂の上の雲』のような作品は、つとめて避けてきた。司馬遼太郎の作品は、読み始めたら止まらなくなることは請け合いだし、娯楽という意味ではこの上なく読書の楽しみを味あわせてくれるのだが、結局のところ、中身は浪花節以外のなにものでもないからである。
しかし、浪花節なのは司馬遼太郎だけではない。つまるところ、小林秀雄も浪花節だし、吉本隆明も、谷川雁も、宮沢賢治も、中原中也も浪花節だ。そして私は自分が、実は浪花節ばかり好んで読んできたことを悟った。それで、つきつめると、どうやら私は自分では嫌がってきたはずの浪花節好きの俗物で、それは物心ついたころからの骨の髄まで染みついたものであることにようやく気が付いた。