コラム

ヒョンビンと私

2020年8月20日

 

韓国の財閥令嬢が乗っていたパラグライダーが、突然の竜巻で北朝鮮まで吹き飛ばされ、木に引っかかっているのを北朝鮮軍将校に見つかり、慌てて落ちてきたところをキャッチされる。韓国ドラマ『愛の不時着』に出てくる北朝鮮軍将校役のヒョンビンを見ながら考えた。世の中にはこんなにカッコよくて、何をやってもサマになりそうな人がいる一方で、ほとんどの人はそうではない。こんな不公平があっていいのだろうか。神様はいったい何を考えて、世の中をこういう風にしたのか。

 

身の回りの犬や猫や、家で飼っているウサギの類を見ると、おおむね似たような姿をしていて、どう見ても人間ほどの格差はない。人間だけがどうしてこんなにも違うのか。

 

しばらく考えて、腑に落ちたのは、人間の生はそれぞれの人にとって一度きり、誰のものとも換えられないものだということ。誰のものでもない、その人だけの、それも一度きりの生で、一人一人異なる生であることを表しているのが、一人一人の異なる顔ではないかと思った。

 

それで、こんなことを言っては噛みつかれるかもしれないが、犬や猫やウサギは、誰の生であってもたいして変わり映えがしない。だからどれも、似たような顔、姿をしているし、それでいい。蟻や蜂などの昆虫も、懸命に生きているところを失礼だが、それぞれに違う顔は必要ではない。みんな同じで、みんないい。

 

では、生が一人一人違うこと、違う生が一人一人あることを示しているのが、人間の一人一人の顔や姿であるとして、そこにカッコいいものとそうではないものがあるのはどうしてなのか。

 

これは神様のせいにはできない。人間の文化のせいだ。人間の文化が、こういうものがカッコいいという価値観を作り出して、みんなの頭に刷り込んだ。人間である限り、そこから自由になるのはなかなか難しい。それは本質ではなく、見せかけだと分かっていても、なかなか難しい。

 

ステイホームで家にこもって、ヒョンビンと私を引き比べながら、そんなことを考えた。