コラム
座右の地図帳
2019年10月18日
人には「座右の辞書」が必要だが、「座右の地図帳」も欠かせない。ナチス・ドイツものを読んでいて東プロイセンが出てきたとき、どこにあるのかを確認できなければ一知半解にとどまるからである。また日本の戦国時代ものでも、琵琶湖周辺の姉川、賤ヶ岳、関ヶ原、安土城、坂本城、佐和山城など、位置関係を知っているのと知らないのとでは全く興趣が異なる。
宮崎市定の『雍正帝』を開くと、はしがきの一行目に、こう書いてある。「こころみに座右の地図帳を開いて、ヨーロッパの大都市で王宮のありかを探して見給え」。そして、「次に北京の地図で探して見給え」。北京の紫禁城とその外苑である皇城の大きさには誰しも驚くが、その大きさは権力を象徴し、人民との距離を作るのに必要なものだった。
雍正帝は、中国清朝の五代目の皇帝である。清朝の初代は太宗。4代目の康熙帝、6代目の乾隆帝のころが全盛とされている。雍正帝は、その中にあって目立たないが独裁政治の完成者であったと宮崎市定はいう。そのために雍正帝は毎朝4時前には起床し、毎晩遅くまで山のような報告書に細かく手を入れて返書を書き送った。外出したり旅行したり静養したりすると仕事がたまるだけなので、それもめったにしなかった。
某国のように民主主義の失敗を目の当たりにすると、英明な君主による独裁制の方が人民は幸せではないかと思えたりするが、人民はそれでいいとして英明な君主の方は身が持たない。
清朝の隆盛は永くなかった。西太后の頃には、内乱と欧米列強の侵略ですっかり疲弊していた。その清朝末期に日清戦争で敗北した国の留学生として、日本に来た中国人の一人に魯迅がいる。魯迅は、仙台の医学専門学校に入り、「中国は弱国である。したがって中国人は低能児である。」と書かざるを得ないような中で医学を学んでいたが、そこには彼のことを案じてくれる先生がいた。魯迅は、その解剖学の先生のことを自伝・回想記として残した。魯迅の作品は中学や高校の教科書によく載っていたが、今はどうなのだろう。そのうちの一つは、『故郷』である。そしてもう一つが、この『藤野先生』である。どちらも昔から何度読み返しても、激しく揺り起こされる感動から逃れられない。