コラム
五月の藁
1999年1月20日
鎌倉の小さなすし屋で晩年の小林秀雄氏を見かけたのは昭和50年ごろだったと思う。今日出海氏やそのほかの鎌倉文士達もそこにいた。たまたま入ったすし屋だったのだが、偶然の僥倖というのか、後でその話をして友人たちをずいぶんうらやましがらせたものだった。小林秀雄といえばその頃の私達には神様のような存在だったのだ。
その頃の付合いの中で思い出すのは、メルロ・ポンティに傾倒していつも見えるもの見えないものの話をしていたAさんと、魯迅の研究者であったSさんだ。Aさんは身なりに無頓着でその辺に脱ぎ捨てたものを順番を考えずに着てくるので、格好がいつも変だった。Aさんには見えるものと見えないものの独特の基準があるらしかった。Sさんは川口の郊外というのか、当時の川口にはまだ農村のような地域もあって、その中の馬小屋を改造した下宿で本に埋もれて暮らしていた。行くといつもかすかにワラの匂いがした。Sさんも鎌倉に行ってみると言うので、確かすし屋の場所を教えたような気がするが、どうだったろうか。どこかで元気でいるだろうか。
この間、小林秀雄の評論集のページを何度もめくってみたが探しものは見つからなかった。「時が流れる。お城が見える。無疵な心がどこにある。」と、ランボーの詩の一節を訳した後で、「過ぎ去った過去が悲しいのではない。過ぎ去るということが悲しいのだ。」と書いたのは小林秀雄だと記憶していたのだ。見つからないところをみると違うのかもしれない。演歌調というか、フォークソング風というか、こんな物言いは小林秀雄には似つかわしくないように思える。
「万物は流転する」と言ったのは古代ギリシアの哲学者ヘラクレイトスである。現代のようにそれこそ万物がめまぐるしく変転する時代ならともかく、今からすると時間が止まっているように思える古代にそんなことを言ったのだから驚く。実際、我々の社会は一時として動きを止めず、刻々と変化していく。まことに変化の中にこそ真実があると思われる。人と人の関係も、変化していく。それが人の世の習いである。人の流れの中に自分も流れているようなものである。止まっているように見えて、いささかも流れは止まっていない。なにかの時に、ハッとして「ああ、流れていたんだなあ」と強く気付かされる。