コラム
苦しむ力
1999年3月20日
「障害者や環境という言葉には偽善の匂いがして好きになれない」と娘が言う。まさかとは思うが、こういう感性まで遺伝したということはないだろう。そんな私が障害者の野球チームを主人公にした映画に誘われて、ノコノコと見に行ってしまった。映画のタイトルは『パーフェクト9』という。東京ロッキーズという障害者だけの野球チームの記録映画である。最初は舞台挨拶というのか、出演者たちがぞろぞろ出てきた。巨人にいた村上や西武にいた石毛などプロ野球のOBたちも何人かいる。映画の方はどうせたいしたことはないだろうとたかをくくっていたら、見ているうち引き込まれてしまった。最後には泣きそうになったが、両側に知人がいたのでこらえた。
結局私の感性というのも、障害者のことをよく知らなかっただけだと気が付いた。人は知らないものに親近感を持つことはできないのだ。すべてのことは知るところから始まる、と自分に言い聞かせた。
障害には先天的なものもあれば交通事故などの後天的なものもある。また障害や病に限らず人にはさまざまな苦しみがある。それらは一人一人の個人が負わされる形になっているが、実は人類全体に降りかかっているのではないか、それらを負う能力のある個人が分担して負っているのではないか、負っていない者は運がいいのではなく負う能力がないから免除されているのではないかと、そんなことを思った。だから、苦しみを負う者は我々の分まで負ってくれているのだと。
柳美里という女性作家が顔に障害のある友人の話を書いて損害賠償を求められた事件。柳は「表現の自由」だと居直っていたが、もうそれだけでこの人の小説など読みたくもなくなった。立場が弱くなると個別の話を一般論に置きかえる論法は、夫婦喧嘩などで女性がよく用いるるもので、女性特有のずるさを表していると思う。夫婦喧嘩ならいざ知らず、たいして弱くもないこういう場面で出してくるのは、日本女性にはない半島的なルサンチマン(恨み)が感じられてまず嫌だ。だいたい「表現の自由」なんて、報道商品市場で、自分の恥じ意識を打ち消すために追っかけレポーターが振りかざす言葉で、やせてもかれても小説家が使うべき言葉じゃない。
『小さいことにこだわるな』という白人らしい人の書いた本が平積みされていた。中身を読んだわけではないが、考えてしまう。小さいことにこだわらずに、何にこだわれというんだろう。大きいことだろうか。しかし、大きいことってなんだろうか。世界の運命だろうか。空が落ちてこないかとかそんなことだろうか。東洋ではそれは杞憂というんだがなあ。