コラム
マラソンはエライ
2000年6月20日
刑務所に戻りたいといって人を刺した男のことが報じられていた。刑務所というのはそんなに居心地がいいところなのか。花輪和一という漫画家の描いた『刑務所の中』という漫画を読むと、塀の中は上々とは言えないまでも、居心地は悪くなさそうである。花輪はモデルガン好きが高じて、銃刀法違反で逮捕され、懲役3年の実刑判決を受けたのだが、刑期を終えて出所した後、拘置所や札幌刑務所での服役中の生活の様子を漫画にした。獄中の日常生活の描写が細かく、ことに食事の様子はリアルなのだが、驚くのはその献立である。朝の納豆、焼海苔、油揚げと白菜のみそしる、おやつの甘納豆やようかん、最中、かりんとう、と私の好物がいっぱい出てくるのだ。それも規則正しく。このごろ、シャバの冷たい風に当たりすぎているせいか、なんだか少しうらやましいような気持ちになる。
気の進まない政治家の会に出てみると、話は相変わらずである。かつては、飢えた子を前に何が出来るかというのが政治の課題だった。今は「飢えていない子」を前に何が出来るかが問題である。そして「飢えた子」よりも「飢えていない子」の方がよほど難題で、そういうことを感受できる感性が今の日本の政治家には必要な資質なのだと思う。
子供の教育というのはわかりやすいテーマである。専門性もそれなりにありそうだが、あってもたいしたことはなさそうに思える。それで、誰もがなにかしら口を出す。一国の総理から、街の会計事務所のヒゲオヤジまでが、一家言を持つ。このこと自体が既に退廃である。退廃といえば、野球などは退廃の極みだと思う。その点マラソンはまだ救われていると思った。そもそも42.195キロ走ろうとすることだけで、すでにエライ。常人の及ばない域である。テレビの前でごろごろしている輩に、どんな注文が付けられようか。
話を元に戻すと、教育などいっそ止めてしまった方がいいというのが、ヒゲオヤジの結論である。現代日本の教育は過剰過ぎる。教育の過剰なところには、学ぶ喜びもなければ教える喜びもない。ただ退廃があるだけである。学力低下の問題も教育の不足ではなく、教育の過剰が原因ではないか。教育など押し付けられなくても、人は自ら学びたいときには懸命に学ぶのだ。
「ゆとり教育」を掲げる文部省の「新学習指導要領」に対する反対意見が、近頃盛んに聞こえてくる。昔よく一緒に授業をさぼった文部省のTは、「ゆとり教育」の元凶と見られて、ときどきバッシングされている。しかし、文部省の進める「ゆとり教育」は、今日の教育の過剰を改める文部省なりの表現ではないかと思えてきた。まさか、文部省が「教育などいっそ止めてしまった方がいい」とは言えないだろうから。
だが、余った時間に「個性を伸ばす」とかなんとかいう“政策の過剰”はやめてもらいたい。余った時間はみんな勝手にすればいいのだ。