コラム

子のつく名前の女の子

2002年5月20日

 

地方の新聞には高校入試の合格者の名前が掲載されている。その中に子のつく名前の女の子が何%いたかを調べて、高校の入試水準ごとに並べてみたら、1980年代ごろから入試水準が高い学校ほど、子のつく名前の女の子の比率が高いことがはっきりしたという。『子のつく名前の女の子は頭がいい』(金原克範・洋泉社)の著者は、このことは子供の運命は生まれたときにほぼ決定されているということを意味するといい、女の子の名前は両親が子供に行う「プログラム」を表していると、恐ろしいことをいう。

その背後にはなにがあるかというと、両親の意識に影響を与え続けてきたマスメディアがある。そしてこのマスメディアの副作用は、もはや抜き差しならないところまで来ていると指摘する。マスメディアの影響を受けて成長してきた最初の世代「メディア1世」は、彼らの親が「メディア0世」だったため問題なかったが、次の「メディア1世」に育てられた「メディア2世」になっていっぺんにツケが回ってきた。確かに、マスメディアを視聴するために家に帰り、マスメディアを視聴し疲れて眠り、起きて、また眠い目をこすりながらマスメディアを視聴する、早い話が起きぬけに新聞を開くかテレビのスイッチを入れるというのは、とことん異常なことに違いない。その結果、我々は近い将来未曾有の危機に見舞われるという。どんな危機が待っているのか、まずは「テレビばかり見ながら母親が食事を作るのをごろ寝して待っている娘が、新しい家庭でどうして食事を作ることができるのか」とあるから、家庭での食事に関して強い忍耐力が要求される状況が来る。

ともあれ、現代の人類にとって、マスメディアの問題は最大の問題である。というのが、マスメディアに対して人々はもう十分に辟易し、嫌悪しているが、テレビや新聞が嫌悪を歓迎するわけはないので、人々のそうした気持ちには行き場がない。そのため、それは現状の社会への嫌悪となって吐き出されることになるからだ。フランス大統領選での極右のルペン氏の18%の得票率は、マスメディアに対する嫌悪が人々の中にくすぶり、そして膨らんで来ていることを示している。

このところ日本では、“個人情報保護法”が出されるというので、ブラウン管の中では、キャスターやタレントたちが当然のように「知る権利」を口にする。しかしそれは彼らの生活の糧なのだから、少しは羞恥心のあるたたずまいができないのかと言いたくなる。『まれに見るバカ』(勢古浩爾・洋泉社)の「私の嫌いな10のバカ言葉・番外編」の中に、「権利」という言葉が出てくるが、「できることなら死ぬまで口にしたくない言葉のひとつ」、「権利は他人のために口にせよ」と書いてある。