コラム

元気ですか?

2004年2月20日

 

日本人の学生と中国人の留学生を見ていて感じるのは、明らかな元気の違いである。今にも死にかかっている魚と、それを狙っている野良猫ぐらいの差はある。外国に来ているという点を割り引いても、中国人の留学生たちは総じて楽しそうにしているが、日本人の学生で楽しそうにしているのは一人も見ない。栄枯盛衰のならいといえばそれまでだが、いずれ魚は猫に食われてしまうんだろうか。

韓国の人気ドラマ「冬のソナタ」を見て思った。このドラマは日本のテレビドラマの感覚で言うと、30年ぐらい古い。古いが、日本人の中にも結構熱狂的なファンがいると聞いた。それは、日本のドラマの新しさになじめない人たちが相当数いるということだろう。その人たちは、日本のお茶の間のブラウン管の中で繰り広げられるドラマに、長い間違和感を持ち続けてきたのだ。

ドラマというのは、多少のことはさておくと、見る側がどうこうということはなく、作る側が作りたいように作っている。小説を、作家が書きたいように書くのと同じである。そうしてドラマの作り手たちは、自然と手を変え品を変えて、目新しさを追い求めるようになるのだが、「冬のソナタ」を見る限り、韓国のドラマの作り手たちのスピードは驚くほど遅いという気がする。素朴というか、牧歌的というか、感覚が古典的である。北朝鮮のドラマとやらをときどき見ることがあるが、「冬のソナタ」もこれに近い線を行っている。

これはどうしたことだろうか。日本と韓国のこの30年間の現実の違い、小春日和のような平和な現実にどっぷりと漬かってきた日本と、危ない綱渡りのような現実を目の当たりにしてきた韓国社会との違いかもしれない。そういう韓国社会の厳しい現実が、ドラマの作り手たちにブレーキをかけた。早く言えば、日本のように作り手たちのオフザケが許されるような社会ではなかったということか。

生きるというのは、やはりたいへんなことである。自然に生きているには違いないが、皆顔が違ったり姿かたちが違ったりするのは、生きることのたいへんさを表している。そのたいへんなことをしている我ら万物生き物というのは、なんだかんだ言ってもやはりたいしたものだと思う。