コラム

それを猟師が鉄砲でうってさ

2017年2月20日

 

最近本で読んで、人に話さずにいられない面白い話がある。栃木県足利郡吾妻村の龍光院というお寺に、古くから貨狄(カテキ)様と名付けられた木像があって信仰を集めていたそうだ。もともとは村の清右衛門という者の家にあったのを寺に納めたものだった。清右衛門は寺に納めてからも、供え物を欠かさず、木像を崇めることは変わらなかった。ところが、この像が夜な夜な出歩くというウワサが立ち、ある晩猟師がびっくりして鉄砲で打つと、右の腰のところに二か所穴の開いた貨狄様が転がっていた。それ以来、これに懲りたのか、貨狄様が出歩くことはなくなったという。

 

大正時代になって、その容貌が欧米人のようだと興味を持った考古学者らが調べてみると、裏にアルファベットと数字が彫られていた。それはあとで「エラスムス/ロッテルダム・1598」だったことが判明する。

 

1598年にオランダのロッテルダムで建造されたエラスムス号は、その後リーフデ号と改められインドへ向かうが、その航海は困難を極め、英国人ウィリアム・アダムスを乗せて漂着したのは日本の豊後湾だった。ウィリアム・アダムスは大阪に送られて、徳川家康に目通りし、やがて三浦按針として家康に仕えたことは誰もが知るところである。

 

リーフデ号の方は、豊後湾から堺港、江戸港を経て浦賀に到着したが、その間にかなりの略奪や没収を被っていた。エラスムス像は、このリーフデ号、元の名はエラスムス号の船尾に取り付けられていたもので、猟師に鉄砲でうたれたという二つの穴は、像を取り付けるためにあけられた穴だったのである。このエラスムス像がどうして清右衛門の家にあったのかはもちろん謎である。

 

エラスムスは、16世紀初めに活躍した人で、オランダが生んだルネサンス最大の人文主義者であり、『愚神礼賛』を著して、宗教改革に影響を与えたとされている。それから、貨狄というのは、謡曲などで船にまつわる名前として使われていたそうである。この貨狄像は、現在は東京国立博物館に国宝として所蔵されている。